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特許庁選定、日本の「十大発明家」


1、豊田佐吉(1867~1930)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_962652.jpg静岡県湖西市の貧しい農家兼大工の家に生まれた。
小学校を卒業した後、父のあとを継いで大工の修業を始めたが、東京で行われていた内国勧業博覧会を訪れた時、外国製の機織りを目にする。
佐吉の母は機織りで生計を支えていたが、この頃の機織りは一枚を織るのに多大な労力と時間が掛かっていた。
数年間、織機の発明に取り組み、「豊田式木製人力織機」を完成した。
これが日本で大ヒットとなり、その後「豊田式木鉄混製動力織機」を発明して生産性を高めた。
当時、明治政府は紡績産業に力を入れていた事から、日本の産業発展に貢献する事となった。
1924年に発明した「G型無停止杼換え式トヨタ自動織機」は世界初の自動織機として、英ブラット社が当時の100万円で特許を買い取り、その資金で息子の喜一郎と共に自動車の開発を始める事となった。
佐吉自身は志半ばで亡くなりますが、その遺志を引き継いだ喜一郎は現代のトヨタグループの礎を築く事となった。


2、御木本幸吉(1858~1954)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9161969.jpg三重県鳥羽市で代々うどんの製造・販売を行う「阿波幸」の長男に生まれた。
30歳の頃、当時天然真珠は高値で取引されており、全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅に瀕していた。
この事態を憂慮して、アコヤ貝の養殖を行うと共に「真珠の養殖」を研究し始めた。
1893年、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着しているのを発見してから、1896年に真珠養殖法の特許を取得する。
1905年に完全な新年真珠の養殖法を確立する。
その後、ヨーロッパの宝石商が養殖真珠は天然真珠と比べニセモノであると訴訟を起こしたが、天然と変わらないと認定され、世界に認められるようになった。
幸吉が創設したミキモトは世界の真珠をリードする存在として活躍している。


3、高峰譲吉(1854~1922)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9175442.gif富山県高岡市で加賀藩の御典医の長男に生まれる。
母は造り酒屋出身で後の麹の改良に繋がる。
東京大学 応用化学科を卒業後、英グラスゴー大学へ留学し、その後農商務省に入いり肥料の改良に従事する。
1884年にアメリカで開催された万国工業博覧会に派遣され、終生の妻となるキャロライン・ヒッチと婚約する。
農商務省を辞した後、アメリカへ永住する。
1894年、でんぷんを分解する酵素を植物からジアスターゼを抽出し、自分の名前を付け「タカジアスターゼ」と名付け、消化薬として有名になる。
譲吉が移住したシカゴは、多数の食肉処理場があり、家畜の内臓からアドレナリンの抽出の成功、止血剤としてあらゆる手術に用いられた。
1913年「タカジアスターゼ」の販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。


4、池田菊苗(1864~1936)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9224010.jpg京都で薩摩藩士の二男に生まれる。
東京大学理科学化学科を卒業後、同大学の助教授となり、1899年ドイツへ留学中、半年間ロンドンに滞在していた時に、夏目漱石と同じ下宿に住む。
菊苗は夕飯に出された料理のおいしさに気付き、それが昆布を使った事を知り、昆布だしから旨みの成分を抽出する研究を始め、1908年、昆布の旨み成分がグルタミン酸である事を発見する。
翌年、味の素(株)よりうま味調味料「味の素」が発売される。


5、鈴木梅太郎(1874~1943)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9252240.jpg静岡県新田村の農業の二男に生まれる。
東京大学農学部農芸科を卒業後、同大学の教授となり、理化学研究所の設立者となる。
1910年、脚気の疫病に関する研究を報告。この報告にはニワトリに白米のみで飼育すると脚気の症状が出るが、玄米では脚気の症状が出ない事が記されていた。
その後、米ぬかからビタミンB1の抽出に成功し、「オリザニン」と名付け、脚気の特効薬として広まる。
1922年に合成清酒を発明して,「利休」の名で市販される。
「利休」は協和発酵キリンを経て、アサヒビールに引き継がれている。


6、杉本京太(1882~1972)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9261887.jpg岡山県に生まれる。
中学を卒業後、印刷技師として従事する中で、活版印刷をより簡略化するために邦文タイプライターを思い着く。
京太が考案したのは、英文タイプライターのように円筒状に活字を並べる構造ではなく、平面に活字を並べる構造だった。
日本語の場合、ひらがな、カタカナに漢字と最低でも2000文字が必要になる為、実用に適した邦文タイプライターは困難とされていた。
発明後、「日本タイプライター(株)」を設立し、後のキャノンになって行く。


7、本多光太郎(1870~1954)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9271480.jpg岡崎市に生まれる。
小さい頃は学校の成績も悪く、年中青鼻を垂らしていた。
1894年東京大学理学部物理学科卒業後、ドイツとイギリスへ留学し、同大学の物理学科教授になる。
1917年、永久磁石のKS鋼を発明する。また、1934年に新KS鋼を発明する。
その当時は世界最強の永久磁石であった。
身の回りの事は気に掛けず、大雑把であったと云う。


8、八木秀次(1886~1976)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_92824.jpg大阪府に生まれる。
1909年東京大学電気工学科を卒業後、東北大学の教授の時に、「導波現象」を発見する。
1925年、宇田新太郎と共にその理論に基づく八木アンテナの実用化に成功し
特許を取得する。
しかし、当時の政府や軍部は八木アンテナの有効性を認めなかった。
一方、欧米ではレーダーの感知精度の向上に有効である事に気づき、日本より優れたレーダー技術を持つようになった。
シンガポールへ進出した旧日本軍はイギリス軍の基地でレーダーの資料の中から「YAGI」の文字を見つけ、それが八木アンテナである事に気づき、研究を開始したが、手遅れのまま終戦を迎える事となった。
終戦後、秀次は「八木アンテナ(株)」を設立する。


9、丹羽保次郎(1893~1975)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9284844.jpg三重県松阪市に生まれる。
1916年東京大学電気工学科を卒業後、逓信省を経て、日本電気に入社。
写真電送の研究に取り組み、NE式写真電送装置を完成する。
ファクシミリの原型は、電話の発明者の一人であるグレイが発明したが、実用化したのは日本です。
保次郎達が開発した「NE式写真電送機」と外国ファクシミリの比較が、1928年昭和天皇の即位の式典で行われ、外国のファクシミリは電送するのに数時間かかったのに対して、「NE式写真電送機」は一発で成功しその速度と精度を見せつける事となった。
1949年東京電機大学の初代学長に就任する。


10、三島徳七(1893~1975)
特許庁選定、日本の「十大発明家」_d0187477_9293810.jpg兵庫県洲本市で農家の5男に生まれる。
1920年東京大学小学部鉄冶金学科を卒業後、主任教授の三島家の養子となる。
1931年MK鋼を発明する。
鉄にニッケルを加えても磁石にならないが、更にアルミニウムを加えた合金は永久磁石に適している事が分かった。
MK鋼は本多光太郎のKS鋼より磁力が強く、且つ製造費用安くを抑える事が出来た。
永久磁石は、マイクやスピーカー、発電機やモーター、ハードディスクに使用され電化製品にとって無くてはならない存在となる。


by mnnoblog | 2018-05-19 08:34 | 気になる事柄

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