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2017年 08月 14日 ( 1 )

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  (DIAMOND online の画像と記事より)

昨年3月、私は15年間勤務していた東大病院を任期満了退官しました。

所属していた組織を離れ、心の同志はいますが、物理的には「ひとり」で住んでいます。

そんな、ひとりという状況で浮かぶのが、「孤独」という言葉です。


一般的には、孤独にはネガティブなイメージで語られる面があります。

その筆頭が「寂しい」イメージですが、「ひとりは寂しい」という一方的な感情を、私たちは幼い頃から他人に刷り込まれてしまってはいないでしょうか。


私は現在、何よりも自由という喜びを感じています。

その自由には、責任の所在も含まれています。


いいことも悪いことも自分の責任である、ということが心地いいのです。

これは「自立」と言い換えることもできるかもしれません。


日々のすべてが自分の裁量というのは大きいことです。

時間の使い方にしても、お金の使いみち、食事の選択にしても、すべてが自分の裁量にまかせられているのはありがたいものです。


しかし、何といっても、ひとりの時間の思考には一切の遠慮がいりません。

すべてを自分本位に考え、素直に感じることができます。

自分にどこまでも正直になれます。


実は、意外にも組織にいたほうが、人は相対的にひとりを感じやすいものです。

組織に適合してしまえればそう感じることはないでしょうが、適合できない、合わない、と思う時に、人はひとりだと感じるものです。


ひとりとは、実は比べるものがあって初めて相対的に感じるものであり、はじめからひとりでいると自覚していれば、それは絶対的なものとなり、だからどうだと感じることはなくなるものです。


私自身、現在は物理的意味ではなく意識としてひとりだと思っています。

非常勤で大学に行くことはありますが、たとえ今、どこかの組織からお誘いが来たとしても、当面は考えていません。

組織というのは宗教と一緒で、そこに組織の論理が働きます。

そこで自分の意見を変えないといけないようなことがあっては困るからです。
とりあえず私は、どこにも属さず、ひとりである今に何の不自由も感じていません。


言うまでもありませんが、誰もがひとりで生まれ、ひとりで逝きます。

ですから、誰かが定義するしないにかかわらず、誰もが本来ひとりなのです。


いつも自分は大勢でいるから孤独ではない、と言う人がいますが、そういう人に限って自分が孤独である事実を見ないようにしています。


ひとりでいても、心が孤独でない人はひとりではありません。

逆を言えば、大勢といても決断を下す時はひとり、あるいはそこに寂しさを感じたら孤独です。

独居をしていても、ひとりという感覚がないという人もいるでしょう。


つまり、孤独とは、ひとり暮らし、家族がいない、友人がいない、といった状況を指すのではなく、寂しさを感じているといった心の在り様を指すわけです。

ここでは、物理的なひとりだけではなく、大勢の中にいても感じる孤独を含めた広い意味での心の在り様も示す言葉として、「ひとり」を使うことにします。


ひとりとは、「人間本来の自由な状態」と私は解釈しています。
もっと簡潔に、「あるがまま」「ありのまま」と言ったほうがいいでしょう。
本来のあるがまま、人としてのあるがまま。そして、最も自由な状態。
それが、「ひとり」なのです。


私は、今という時間を大切にしたいと思っています。

過去も将来も一体となった今を生きる、つまり古神道でいうところの「中今」です。


ひとりであるという自由な状態をありがたいものと受け止めて、あるがまま、ありのままに「ひとり」を楽しんでいる時こそ、「没我」に、そしてこの中今を生きることにつながるのです。


ひとりの時間のメリットには、次の3つがあります。

(1)惑わされない
(2)自由に考えられる
(3)自在に動ける


他人に惑わされない時間というのは、「自決する力」を高めます。

自決とは、他人ではなく自分で決める意思であり、その態度のことです。


この力が強ければ、たとえば集団内に身を置いていても、周囲に左右されることがありません。

逆にこの力が弱ければ、いつも周囲に左右されます。


自由に考えられる時間は、「想像する力」を高めます。
自在に動ける時間は「幅広い関心を持つ力」を高めます。


自決力、想像力、関心力。

この3つは、情報が錯綜する社会において、楽しんで生きるための必須能力です。

心の自由が得られる3つの能力なのです。


作家ウィリアム・シェイクスピアは、「私はひとりでいる時が一番忙しい」と公言しました。

古代ローマの政治家マルクス・トゥリウス・キケロも「人はひとりでいる時が最も精神的に多忙」と遺しています。

ひとりの時間は暇ではないのです。


ひとりでいるのなら時間はたっぷりあるだろう、と考える人もいるでしょう。

けれど、それはそもそも時間に対する観念の違いなのですから、たとえば、人のために一生懸命何かをすることが喜びです、という人と、自分のことしか考えない人に共有できる部分がないのと同じくらい根本的に理解してもらえないことだろうと私は思っています。


ひとりでいる時間は、学びの時間です。

情報を仕入れたり、考えたりして、終始学んでいる時間だといっても過言ではありません。


また、情報はいろいろな方法で仕入れています。

読書をして得ることもあれば、人と話すことで得られることもあります。

それである情報の筋道ができると、そこからまた新しい情報が入ってくることも多々あります。

つまり、ひとつを知れば、それでおしまいではなく、どんどん次が、その先が知りたくなってくるから忙しいのです。


ですから、ひとりの時間というものの感覚を、たとえば時間を大切にしない人に理解してもらおうというのはそもそも無理なことなのかもしれません。


矢作直樹(やはぎ・なおき)

1956年、神奈川県生まれ。81年、金沢大学医学部卒業。その後、麻酔科を皮切りに救急・集中治療、内科、手術部などを経験。99年、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻および工学部精密機械工学科教授。2001年、東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授および医学部附属病院救急部・集中治療部部長となり、15年にわたり東大病院の総合救急診療体制の確立に尽力する。16年3月に任期満了退官。


by mnnoblog | 2017-08-14 08:12 | 生活

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