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カテゴリ:歴史( 23 )

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  (FUNDCの画像と記事より)

世界には190を超える国が現存していますが、その中で世界最古の国家が日本であることは、あまり知られていません。

世界の歴史は王朝の交代する歴史ですが、世界史の年表を見てみると、国家は数十年、または百年程度で成立と滅亡を繰り返していることがわかります。

人類史上でも、400年以上にわたって国を守りきれたのは数えるほどしか例がありません。
その中で、日本だけが古代から続く王朝を守り、今も存在しています。

例えば、中国の歴史は王朝交代の歴史であり、300年以上持ちこたえた王朝はありません。
1911年に辛亥(しんがい)革命が起きて、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が退位してから、中国に王朝はなくなりました。

また、ヨーロッパで最も歴史が古い王朝はイギリスですが、初代国王のウィリアム1世が英国を征服した1066年を起点とするなら、英国王室の歴史は9百数十年です。

そのイギリス王室よりも長い歴史を持つのは、地球上で日本の「大和王朝」だけです。

紀元前660年、新日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)という人物が大和の地に国を作ったのが、日本国の始まりとされています。
この人物こそが最初の天皇であり、後に「神武天皇」と呼ばれることになります。

神武天皇が国をつくったことは、正史である「日本書紀」に書かれています。
建国から現在まで、天皇は例外なく神武天皇の子孫によって受け継がれています。
神武天皇がつくった国「大和王朝」は、後に「日本」と呼ばれるようになりましたが、一度も途切れることなく同じ国が現在まで続いているのです。

2700年、125代の天皇の歴史は、世界に類を見ないものであり、こうした事実は日本人として誇るべきことだと思います。


by mnnoblog | 2017-05-14 08:42 | 歴史
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  (gooニュースの画像と記事より)

江戸時代から明治初期の大阪・中之島に、世界遺産・厳島神社(広島県)と同じような水上の鳥居が立っていたことを裏付ける写真が見つかった。

当時の広島藩蔵屋敷にあった厳島神社の船着き場近くにあり、安芸・宮島の「本家」と同様、米などの物資を運ぶ航海の安全を祈願して建立されたとみられる。

「天下の台所」と呼ばれた大阪には、各藩が回送した米や特産物などを保管する蔵屋敷が立ち並んでいた。
堂島川沿いにあった広島藩の屋敷は中でも大きく、船が屋敷内に入って荷揚げできる「船入」(船着き場)もあった。

今回見つかった写真には、船入の水面を海に見立てる形で建てられた鳥居が写っていた。


by mnnoblog | 2016-12-25 08:20 | 歴史
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  (TOCANAの記事より)

世界の七不思議の中で唯一現存する建造物、ギザの大ピラミッド。

一般的にはエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墓として紀元前2560年ごろに建築されたと考えられている。
ちなみに完成時の高さは146.6mで、14世紀にイギリスのリンカン大聖堂が建てられるまで、3800年もの間地球上で最も高い建造物だった。

古代エジプト人は巨大なピラミッドを一体どのような方法で、何の目的で建築したのか、いまだに多くの謎を残しているのだが、“数字にまつわる謎”も数々指摘されている。

今回、世界の不思議を探求するウェブサイト「EWAO」が報告したところによると、なんと光の速さとギザの大ピラミッドの座標がぴたり一致したと言うのだ。
これは単なる偶然か、それともピラミッドにはやはり何らかのメッセージが込められていたのだろうか……。

ギザの大ピラミッド内、大回廊が位置する中心部の座標は、北緯29度58分45.28秒、すなわち北緯29.9792度。
そして、真空中における光の速度の定数は、299,792.458km/sである。

ちなみにこの数値は1983年に定義されたもので、マイクロ波やレーザーを使用することにによって測定されたものだ。
桁数は違うものの、2つの数字の並びはぴたりと一致するのだ。
誤差は0.01%未満で、ピラミッドの中心部からほんの少し足を動かせば、座標と光速は完全に一致するという。
古代人は光の速度を正確に把握していたということだろうか……!?

経度はイギリスの旧グリニッチ天文台を基準としているが、緯度は地球そのものに基準を置いている。
もしも古代エジプト人が、意図的にピラミッドの緯度と光速を符合させていたなら、彼らは光の速さとともに、地球上の正確な位置情報も把握していたことになる。

現代に匹敵するレベル(かそれ以上)の数学、物理学、天文学の知識を持っていたことになりそうだが、実はピラミッドには地球や宇宙に関する数字の符合も見つかっているのだ。

ギザの大ピラミッドには230〜260万個の石が使用されていて、総重量は595万5千トンと見積もられている。
この数字に10の14乗を掛けると、地球の総重量になるというのだ。

また、ピラミッドの高さ(146.6m)に10の9乗を掛けると、地球と太陽の最短距離1億4700万kmとほぼ一致するという。
これを発見したのはエジンバラ大学の天文学者チャールズ・ピアツィ・スミス博士で、1864年出版の著書の中で発表され一大センセーションを巻き起こした。

博士によると、ピラミッドの長さからは他にも、地球の平均密度、地軸の歳差運動の周期などの数値が出てくるようだが、10の9乗のように何の根拠もない数字を掛け合わせることで、自分に都合のいい結果を引き出しているだけでは、という批判もあり“トンデモ説”と見なされることもあった。

また、メートル法は近代に生まれたもので、古代エジプト建築では「肘の角から中指の先までの長さ」と定義されるキュービットという単位が使用されていたと考えられている。
このことから、メートル換算で得られる数字は古代エジプト人とは無関係だとする指摘もなされている。

ピラミッドから続々と見つかる、奇妙な数字の一致は何を意味するのだろうか。
古代人の高度な科学知識が散りばめられているのか。それとも偶然、或いは研究者のこじ付けなのか。

誤差0.01%未満という恐るべき一致を、どう判断するかは読者に任せる他ない。
いずれにせよ、ピラミッドはいまだ多くの謎に包まれている。
我々が知っているのは、巨大モニュメントを作りだした古代の叡智のほんの一部なのかもしれないのだ。


by mnnoblog | 2016-12-20 08:13 | 歴史
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  (JBpress の画像と記事より)

火附盗賊改といえば、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』を思い浮かべる人も多いであろう。
特にテレビドラマで中村吉右衛門が演じる長谷川平蔵が「火附盗賊改である!」と見得を切るシーンは有名だ。

ところが、小説やドラマなどで有名な火附盗賊改という組織がどのような組織であったのかと問われると、私をはじめ多くの人が明確には答えられないのではないか。
そもそも江戸の治安を守っていたのは北町、南町の奉行所ではないのか?という疑問が湧いてくる。

では火附盗賊改とはどのような組織であったのだろうか。

それを知るには徳川幕府創世記の慶長・元和の時代まで遡る必要がある。
戦国の余風が残るこの時代には滅亡した大名家の残党とも言うべき人々が新たな職に着く事もできず困窮していた。
こうした者たちの多くが戦士としての生き方しか知らず、平和になりつつある世の中で燻り続けていたのである。

一度、戦闘員となった者たちが一般人として社会に復帰する事がいかに難しいかは、現代のアフガニスタンや内戦に明け暮れたアフリカ諸国を見れば理解できるだろう。

当時の関東一帯も同じような状況であった。
こうした者たちの一部、特に下級戦闘員出身の者たちが盗賊として跋扈していたのである。

そこで慶長16年に幕府は3人の足軽大将に部隊を与え常陸、下野に派遣する。
賊たちも真っ向から受けて立ち、戦端が開かれた。
このとき多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊三百余人の全てが斬首された。
この武断的な事例が後の火附盗賊改にも受け継がれていく。

江戸の町奉行が主に江戸市内の治安を維持していたのに対し火附盗賊改は市中だけでなく関東一円を活動の場所とした。
さらに捕物が中心の町奉行とは違い、初期の火附盗賊改は賊の殲滅をもっぱらの任務としていたのである。
もっとも時代が下ると火附盗賊改も捕物を中心するようになった。

とはいえ、犯人を現場で切り殺す権利が制限されていた町奉行とは違い、火附盗賊改は犯人を斬殺する事に制限を課されてはいなかったという。

組織としての大きな違いもある。

町奉行が役方と呼ばれる文官系なのに対し火附盗賊改は番方と呼ばれる武官系のトップである先手組頭が任命された。
先手組頭とは戦国の時代の足軽大将のことで、戦さの際には先鋒として敵陣に切り込む武将達だ。
華々しい部署ではあるが、損耗率が高く、勇敢な者でなければ勤まらない役職である。

江戸初期の火附盗賊改は戦国時代に武勇を馳せた家の子孫が任命されていたが、時代が下るにつれ家名と現当主との能力の差に乖離が現れるようになり、低い身分の者で武勇に優れた人物が任命されるようになっていく。

ちなみに町奉行がひとつの役職であるのに対し火附盗賊改は先手組の指揮官に与えられる任務であり、先手組頭の任務と兼務されていた。

先手組頭の役高は1500石で「足高制」という制度が用いられていた。
これは、1500石に満たない身分の者が先手組頭に任命された際に石高の不足分を任命期間中に限り支給されるというもので、上記の鬼平こと長谷川平蔵は400石の家禄で不足分がこの足高制によって支給されていた。

火附盗賊改は実入りよりも出費の方が嵩み多くの者が1~2年ほどで転任していたそうだ。
火附盗賊改の歴史200年の間に役200人もの者が火附盗賊改に任命されている。
そんな中にあって長谷川平蔵は9年もの間、火附盗賊改を勤めていた。

武官のトップといっても戦争のない時代なので彼らの任務は将軍の警護という地味なものが多く、出世に関しては行き詰まり感がどうしてもぬぐえない。

しかし、元禄の頃の久貝中左衛門正方のように文官としての能力も備えた者たちが現れ、番方から役方に取り立てられ、実入りの良い遠国奉行などに抜擢され、幕閣へと出世する者も現れる。
火附盗賊改は番方の出世登竜門のような意味合いが強くなっていく。

さて、江戸に名奉行がいたように、名火盗改と呼ばれる人物も存在する。
その一人が中山勘解由だ。

この男の苛烈さは同時代人を震え上がらせている。
中山は侍、町民の区別なく怪しいと思った者を捕縛し、自身が考案した海老責と呼ばれる拷問で自白させ多くの人々を火刑にしている。
その中には無実の人もおおく含まれていたのではないかと著者は指摘する。

ではなぜこの男が名火盗改なのか。
それは中山が火付改という職分を超えて、当時、町奉行でも手が出せなかった旗本出身のかぶき者集団「大小神祇組」を壊滅に追い込んだ為である。

アンタッチャブルな存在として武士、町人に恐れられていたアウトロー集団に果敢に挑んだ事により、その酷薄な面が相殺され名声を博したようだ。

また鬼平こと長谷川平蔵は公平な裁判と自費をなげうって犯罪者予備軍たる無宿人の更生に尽力した事が高く評価されている。

また火盗改の敵となる盗賊団も興味深い。

例えば日本左衛門こと浜島庄兵衛は100人から200人ほどの手下を率い東海道で暴れまわったという。
現地の奉行や近隣の大名も手が出ず、自由気ままに振舞っていた。
彼は基本的に殺しはやらなかったようだが、押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。
また長谷川平蔵の時代、江戸では武家屋敷ですら抜刀した押込強盗の被害にあうことも頻発していた。

その代表格の一人が大松五郎という男で、浜島庄兵衛と同じく押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。
多くの旗本の婦女が被害にあっている。
大松は長谷川平蔵に捕らえられ、速やかに斬首された。
本来これほどの大盗賊ならば市中引き回しのうえ獄門となるところだが、旗本の婦女子が陵辱されていたために、こっそりと処分されたようだ。

江戸300年はある種のノスタルジーを伴う牧歌的イメージが強く、人々が平和で安心して暮らしていた時代という思い込みがあるのだが、思っていた以上に治安が悪く、警察組織である町奉行や火附盗賊改が取締りに苦労していた一面が見えてくる。

また犯罪という側面から江戸を見ることにより、この時代を生きた庶民たちの欲望が活き活きと蘇ってくる。


by mnnoblog | 2016-12-03 08:15 | 歴史
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  (AFPBB news の画像と記事より)

エジプトのギザの大ピラミッドに、これまで知られていなかった2つの「空洞」が存在する可能性があることが、ラジオグラフィ(X線撮影)を用いたスキャン調査で判明した。

ピラミッドの謎解明を目指すプロジェクト「スキャンピラミッド」の科学者らが15日、明らかにした。

これに先立ちエジプト考古省は13日、クフ王の命により約4500年前に建てられたギザの大ピラミッドで「2つの異質な点」を発見したと発表。
その機能や性質、大きさなどを特定するには、さらなる調査が必要だとしていた。

「スキャンピラミッド」の科学者らは声明のなかで、ラジオグラフィと3次元再構築技術を用いた調査で大ピラミッドの北壁の裏に隠れた「空間」が存在することを確認したと発表。

大ピラミッドの内部に通じる通路を少なくとも一つ形成しているとみられるという。さらに、北東の側面にも「空洞」を発見したという。


by mnnoblog | 2016-10-30 08:12 | 歴史
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  (TOCANAの記事より)

エジプトといえばピラミッドとスフィンクスを思い浮かべる方が多いのではないだろうか。
これらは古代エジプト文明の遺跡としてセットで扱われることが多いが、実は互いの成立年代には大きなズレがあると言われている。

ギザの大ピラミッドは紀元前2500年頃、世界最古のピラミッド「ジェゼル王のピラミッド」は紀元前2700年頃の建造だとされている。
定説では「ギザの大スフィンクス」も、第四王朝カフラー王の命で紀元前2500年頃、「カフラー王のピラミッド」とともに作られたとされているが、実際はそれよりも4500年ほど遡るのではないかと指摘されている。

たとえば、ボストン大学のロバート・ショック教授は、スフィンクス本体や周囲の囲いに雨による侵食が見られることから、長い期間大量の降雨があった紀元前7000年前頃に建造されたのではないかと推測している。
同じく侵食説を支持するエジプト学者のジョン・アンソニー・ウェスト氏は更に遡って1万年前ではないかと試算しているという。

だが、近年の研究で、スフィンクスは何十万年も前から存在していたという驚愕の新説が飛び出してきた。

ウクライナの研究者Manichev Vjacheslav教授とAlexander G. Parkhomenko教授らは2008年の論文で、これまでの説ではスフィンクスの頭部前面に水平な侵食がないことを説明できないと指摘。
このことを自然現象として説明するには、考え方を大幅に変更する必要があると主張している。

そして、彼らが考える合理的な理由とは、なんと、「波による侵食」だというのだ!
ご存知の通り、スフィンクスは砂漠のど真ん中に存在する、
一体全体どこに大量の水があるというのか!?

教授らがギザ大地の地質資料を精査したところ、鮮新世(520万年~160万年前)頃ナイル川流域に流入した海水が徐々に同地を浸水していき、およそ80万年前の更新性カラブリアン期には、スフィンクスの最も高い位置にある侵食付近まで海面が上昇していたことが分かったという。

このことを根拠に教授は、風や降雨ではなく、“波”が直接スフィンクスを浸食していったと結論付けている。
しかし、この説には1つ大きな難点があることにお気づきだろうか?

そう、80万年前に現世人類は存在しないのだ!
この時代に存在したのはせいぜい直立二足歩行をし始めたばかりの原人だ。
彼らがこれほどの巨大建造物を作ることができただろうか……?

ピラミッドやスフィンクスがエジプト文明以前から存在していた可能性は度々指摘されてきたが、今回の研究では桁違いの可能性が示唆されてしまった。
もしかしたら、スフィンクスを建造したのはそもそも人間でも巨人でもないのかもしれない。

もしスフィンクスが80万年前から存在しているとしたら、考古学のみならず、宇宙考古学にも想像を絶する衝撃を与えることは確かだ。


by mnnoblog | 2016-10-14 08:17 | 歴史
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  (TOCANAの画像と記事より)

超古代技術は存在したのだろうか? 
当時の技術レベルでは製造が不可能だとされる不可解な出土品—オーパーツは、実際のところその多くが当時の知識が散逸した結果ミッシングリンクとして現代に伝わったものに過ぎないという。
しかしあらゆる可能性を検討した上で、なお謎として残るものがあるのも確かだ。

これまでに発見された旧人の遺骨の中でも、1921年にアフリカ南部ザンビア共和国のカブウェでスイス人鉱夫が見つけたローデシア人の頭骨ほどミステリアスなものはないだろう。

この頭骨は発見場所にちなんで通称「ブロークンヒルの頭骨」と呼ばれ、30万~12.5万年前に存在したホモ・ローデンシエンシスか、11万年前のホモ・エレクトスの一種ホモ・ハイデルベルゲンシスのものだとされている。

この頭骨の特徴は、左こめかみ辺りにあるほぼ完璧な円形の穴。
この小さな穴をめぐって数十年にわたり科学者や考古学者が頭を悩ませてきたそうだ。

この穴の原因について、研究者らは当時使用されていた槍などの鋭利な刃物によって空いたものだろうと考えていた。
しかし、その後の調査で穴が空いていない右側頭部にも「内部から“吹き飛ばされた”かのような」痕跡があることが判明し、事態が一変した。

それというのも、「右側頭部の完璧な円形をした穴」と「頭骨内部から発生した衝撃」という2つの条件からにわかには信じたい結論が導き出されてしまったからだ。
なんと、現代文明に匹敵するような武器が数十万年前に存在していた可能性が浮上したというのだ。

その理由はこうだ。
もし、弓矢や槍など速度の遅い投擲武器が頭骨に衝撃を与えた場合、その損傷部分は放射状にひび割れるものだが、この頭骨には全くひび割れが見当たらない。
このような穴を頭骨に空けるには桁違いのスピードで衝撃を与えなければならないという。そして、その可能性の1つが「銃」だ。

オランダの研究者でRene Noorbergen氏も「銃弾説」を支持している。
氏によると、「ブロークンヒルの頭骨」に見られるような円形の穴は、ライフルで撃ち抜かれた人の頭蓋骨に見られるそうだ。

参考までに弓と銃の初速を比較してみよう。和弓の初速は平均して時速200キロメートルそこそこ。
銃や弾丸で違いはあるが、スナイパーライフルは大体時速2500~3000キロメートルと言われている。
現代の精密な和弓と比べても、ライフルは10倍以上も速い。
これほど高速の弾丸が頭蓋骨に打ち込まれた場合、頭骨内部に大きな圧力がかかることも想像に難くないだろう。

これらの証拠を考慮すると、「弾丸説」も可能性としては否定できないが、最大の問題は、火薬どころか文明の萌芽さえなかった30万年前にライフル銃に匹敵するような武器が存在したか、である。

これらの証拠を考慮すると、「弾丸説」も可能性としては否定できないが、最大の問題は、火薬どころか文明の萌芽さえなかった30万年前にライフル銃に匹敵するような武器が存在したか、である。


このようにあまりにも過激な想定のため、疑似科学に過ぎないと厳しく非難されることもしばしばあるという。

しかし、ドイツ人の解剖医が「ローデシア人の頭骨に見られる損傷は、銃弾でなければ不可能だ」と判断したと作家で冒険家のアメリカ人デイヴィッド・ハッチャー・チルドレス氏が自身の著書で述べているなど、銃弾説を支持する人が一定数いることも確かだ。


未だ決定的な証拠が見つかっていない以上、どちらの立場もありうるが、もし30万年前に銃があったとすれば、「超古代文明説」、「古代宇宙飛行士説」、さらには「未来人説」などさまざまな可能性が考えられる。読者の皆さんはどう思われるだろうか?



by mnnoblog | 2016-10-12 08:11 | 歴史
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  (AFPBB News 画像と記事より)

世界遺産にも登録されている中国の史跡「万里の長城」で、700年の歴史を誇る一画が修復作業の結果コンクリートで真っ平らに塗り固められてしまったことが判明し、中国のソーシャルメディア・ユーザーの間で激しい非難が渦巻いている。

問題となっているのは、中国東北部・遼寧省の小河口に8キロにわたり、大自然の中に手付かずのまま残った城壁が続く区画だ。
明王朝下で1381年に建設され、「万里の長城」の中でも最も美しい場所として知られている。

インターネットに最近投稿された写真を見ると、修復前には城壁の一部が崩れかけて草木が生え、でこぼこした歩道があったところに、今は白いコンクリートでふたをしたように平らな道が目の届く限り延々と続いている。

「小学校すら卒業していない連中がやった仕事みたいだ」「こんなことなら、いっそ爆破したほうがましだ」。
中国の短文投稿サイト「新浪微博」には、こんな怒りの声が巻き起こっている。

国民やメディアの批判を受け、文化財の管理を担当する中国国家文物局は、「深刻な構造上の問題や洪水によって」城壁に「これ以上の損害や崩壊」が起きるのを防ぐため2012年に小河口の緊急保守工事を命じ、2014年に修復を終えたとの説明をウェブサイト上に掲載した。

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9/6,時事通信

26日付の英字紙チャイナ・デーリーは論説記事で「歴史に対する犯罪だ」と指弾した。
 

by mnnoblog | 2016-09-30 08:47 | 歴史

金も名誉も命も要らぬ

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  (日経新聞”あすへの話題”、新日鉄住金会長 宗岡正二 記述より)

山手線田町駅から旧東海道沿いに新橋方向徒歩2分の地に、「西郷南洲 勝海舟会見の地」と記された記念碑がある。
官軍は江戸城総攻撃を慶応4年(1868年)3月15日と決めていた。その直前13,14日に西郷と勝がこの地で会談。4月11日江戸城無血開城が実現した。

この数日前に、命を懸けて会談のお膳立てをした男がいる。
血気にはやる官軍のただ中を供侍一人だけを連れ、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎(鉄舟)罷り通る」と大声で堂々、西郷に面会を求め、慶喜の恭順の意を伝えるとともに会談の道筋をつけたという。

山岡鉄舟は当時32歳、身長188センチ、体重105キロの偉丈夫であり、剣術、禅、書の達人として知られていた。

西郷は、江戸百万の命と慶喜の名誉を守るため、一命を懸けて単身乗り込んできた鉄舟を「金も名誉も命も要らぬという始末に困る男だが、あんな男でなければ、天下の大事を誓い合う訳には参らぬ」と、終生高く評価したという。

この男なかりせば、江戸城下は流血の惨事に見舞われたか、戦火の混乱に乗じて欧米列強の分割統治となったか。井上馨が幕末期の功績を称える勲章を授与しようと鉄舟宅を訪れたが、その場で突き返したという。

私を捨て、国民や国に命を捧げる気概を持った政治家、官僚、財界人がこれまで何人いただろうか。

鉄舟が開いた一刀正伝無刀流は「剣は斬る為でなく、人間修養の為のものである。力でなく、心で相手を打つ無の心刀である」とし、現在も7代目宗家井崎武廣師範に脈々と受け継げられている。
井崎師範の古武士の如く凛とした所作は、かの鉄舟を彷彿させるものがある。


by mnnoblog | 2016-08-15 08:11 | 歴史
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   (SEEKER の画像とTOCANAの記事より)

1922年、考古学者ハワード・カーターによって発見されたツタンカーメンの墓だが、ミイラの右大腿部分に、1本のナイフが収められていた。

現在、エジプト考古学博物館が所蔵するこのナイフの柄(つか)や鞘(さや)は水晶や金で作られており、ユリや羽根の模様が描かれた見事な工芸品だ。

しかし、その刃の部分に研究者を悩ませ続けてきた大いなる謎が秘められていた。

なんと、3400年以上前に作られた鉄製のナイフであるにもかかわらず、刃がまったく錆びていなかったのだ。
しかも、鉄器時代の幕開け(紀元前8世紀)から遡ること600年、紀元前14世紀に作られたものと考えられており、世界史の通説とも合致しない。

今回この謎に挑んだのが、ミラノ工科大学(伊)、ピサ大学(伊)、エジプト考古学博物館の研究者たちからなる共同研究チーム。
彼らは、ツタンカーメンのナイフを蛍光X線による組成分析(非破壊分析)にかけた結果、刃の部分には鉄隕石と同等割合のニッケルやコバルトが含まれており、そのナイフは隕石から作られたと結論づけている。

実はエジプトの砂漠には、これまで落下してきた巨大な鉄隕石がそのまま放置されているケースも多いのだという。
そこで研究チームは20の鉄隕石に着目、同様に組成分析を行った。
すると、アレクサンドリアから西に約240kmに位置する港町メルサマトルーの高原で、2000年に発見された鉄隕石「ハルガ」の成分ともっとも近いことが判明、ナイフの原材料である可能性がもっとも高いと考えているようだ。

一連の結果を受け、研究チームは古代エジプト人たちが隕石に高い価値を見出し、貴重品を作る際に利用していたと指摘。
さらに、空から降ってくる巨大な鉄の塊を「神からのメッセージ」と受け止めていたかもしれないと考察している。

つまりツタンカーメンの時代、古代エジプト人は鉄の製錬技術を持たなかったが、鉄隕石を「天からもたらされた物質」として珍重し、加工するだけの高い工業技術は有していた可能性が高いというのだ。
なお、ツタンカーメンの墓からは、隕石が砂漠に落下した際の衝撃で生じる石英ガラスを用いた数々の宝飾品も発見されている。


by mnnoblog | 2016-06-12 08:35 | 歴史

のほほんと---


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