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カテゴリ:歴史( 29 )

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  (NHK NEWS WEB の記事より)

エジプトで最大とされるピラミッドの内部に、これまで知られていない巨大な空間があることが、日本などの研究チームによる最新の調査で確認されました。

まだ、見つかっていない王のミイラや副葬品が納められている可能性もあり、ピラミッドをめぐる謎の解明につながると注目されています。

エジプトと日本、フランス、カナダの国際研究チームは、おととしからエジプトで最大とされるクフ王のピラミッドの構造を最新の技術で解き明かす大がかりな調査を進めています。

このうち名古屋大学と高エネルギー加速器研究機構は、宇宙から降り注ぐ「ミューオン」と呼ばれる素粒子を使い、内部をレントゲン写真のように透視する調査を行ってきました。

この結果、ピラミッドのほぼ中央にこれまで知られていない長さが30メートル以上もある巨大な空間があることを確認し、2日づけのイギリスの科学雑誌ネイチャーの電子版で発表しました。

クフ王のピラミッドは、これまでに3つの部屋が確認されていて、このうち「王の間」と呼ばれる部屋からひつぎが見つかっていますが、ミイラや副葬品はどこからも見つかっていません。

今回見つかった空間が何のために作られたかは分かっていませんが、まだ見つかっていない王のミイラや副葬品が納められている可能性もあるということです。

by mnnoblog | 2017-11-09 08:50 | 歴史
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  (日経新聞の画像と記事より)

坂本龍馬と桂小五郎が対決――。

幕末志士の両者が1857年(安政4年)3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていることが30日、分かった。

文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務め、医院も営んだ「根井家」に伝わり、1994年に寄託された。

折り畳んだ縦約16センチ、横約1メートルの和紙で、冒頭に「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷ニ而御覧」と記載。

龍馬らに加え、著名な剣客だった斎藤弥九郎(2代目)や石山孫六、海保帆平ら計43人が、一対一で戦った22試合の結果を毛筆で縦書きに記している。

この時期の龍馬は江戸遊学中で、土佐藩上屋敷近くにあった北辰一刀流の千葉道場(玄武館)で修行。
小五郎も、盛んに対外試合をした神道無念流の斎藤道場(練兵館)で腕を磨いた。

近年は龍馬の剣術が特に優れていたとする傾向もあるが、小五郎には負けたとある。
龍馬は今年で没後150年。
実際に大会があったのか、もう一度議論するきっかけになる。

by mnnoblog | 2017-10-31 08:18 | 歴史
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  (現代ビジネスの画像と記事より)

江戸時代、ほとんどの人は農民として農業を営んでいた。

農業は天候に左右されるから、凶作になるとそれこそ死活問題になり、時には飢え死にすることもあった。

ただ、そのようなことは生涯に一度あるかないかで、まじめに働いているかぎり本百姓(土地を持つ農民)は十分暮らしていくことができた。


しかし江戸中期以降、商品作物の栽培や手工業品の生産などが盛んになると、農民が金銭を持つようになる。


すると娯楽や博徒が農村に入り込み、遊びや博打で身を持ち崩したり、農業経営に失敗したりして土地を手放す人が増え、農村は一部の勝ち組(豪農・地主)と大多数の負け組(小前貧農層)に分かれてしまう。いわゆる二極化だ。


このため幕末には、貧農が質地取り戻しや借金の帳消しを豪農に求め、均等な社会を求める世直し一揆が続発し、これが明治維新の原動力の一つになっていった。


落ちぶれた農民の行き先の一つは、江戸や大坂のような大都会であった。

人口が多い都会にいけば、魚・青物などを、てんびん棒でかついで売り歩く棒手振)などの行商や、奉公人などになって、どうにか生活ができるからである。


とくに江戸は武士が多いから、口入屋(人材派遣業者)を通じて武家屋敷に奉公する人びとも多かった。

参勤交代のときだけ、大名行列の要員として雇われる者もいた。

一説には、大名行列の過半は、そんなアルバイトで占められていたという。


江戸の大名屋敷には多数の武士が生活していたが、仕える武士には大きく分けて二種類ある。

一つは江戸に常駐し、藩の執務や仕事を担い、妻子と暮らしている、定府である。

中には生涯に一度も国元に足を踏み入れず、江戸にある菩提寺に葬られる者もいたという。


対して勤番は、参勤交代などのさいに国元から単身赴任でやって来る者たちだ。

短期間だけお役を務める者たちが大半だったが、明確な勤務年限が決まっているわけではない。


勤番は、特定の藩士が担うものではなく、必要に応じて国元で選定された。

だから四十代半ばで初めて江戸にのぼる藩士もいた。


勤番武士は大名屋敷の長屋に数人が男所帯で暮らすことが多く、「久留米藩士長屋絵巻」を見ると、長屋に茶室をつくってしまう者や書画を飾り坪庭で盆栽や花を育てるなど、それぞれが快適な暮らしができるよう工夫している。

囲碁や将棋、酒盛が彼らの邸内での楽しみだった。


屋敷外の娯楽に関しては、金もなく門限も厳しいので、高額な歌舞伎は年に数回にとどめ、花見や寺社参詣、花火見物、大名行列の見学、見世物や大道芸の見物など、金のかからぬ娯楽を楽しんだ。


ところで武士はもともと主君に仕えて戦場で活躍するのが役目であるから、多くの者はその藩の番方(軍事職)に所属した。

しかし泰平の江戸時代は戦争なんてないから、平時の番方の役目は藩主やお城の警備であり、それほど人数は必要ない。


そんなこともあり、現在のワークシェアリングのような状況で、たとえば長州藩のお城の警備は一日夜勤して二日休みという楽ちんな勤務体系だったそうだ。


江戸幕府の場合も幕臣(旗本・御家人)の数に比して役職が異常に少なかった。

だから江戸も中期になると旗本約五千人のうち約三千人は寄合や小普請であった。

寄合は上級旗本、小普請は一般の旗本が就任する役職だが、驚くことに、それらは何も仕事がない職なのだ。


出勤する場所もなく、ときどき上司と面接して希望の役職や困ったことを相談するだけ。仕事をしなくても旗本は徳川家から定期的に俸禄をもらえるので、飢え死にすることはなかったというから、うらやましい。


ただ、実際問題、御家人クラスになると俸禄だけでは生活が苦しく、多くは余暇を利用して内職に励んだ。

下谷御徒町の朝顔や金魚、大久保百人町の植木、代々木千駄ヶ谷の鈴虫、青山百人町の春慶塗、巣鴨の羽根細工などは江戸の名産品とされたが、いずれも旗本・御家人の内職から有名になったものだ。


このように、支配階級である江戸の武士は、貧しくはあったが過酷な労働を強いられたわけでないことがわかる。

たぶん一番気楽な仕事だったと思う。


そうは言っても武士は支配階級だから、身分制度が厳しい江戸時代にあって、商人や農民が武士になることはできない。

まさに既得権益ではないか。そんなふうに勘違いしている人も多いかもしれない。


でも、それは大きな間違いである。

お金さえあれば、誰でも武士になれたのだ。

武士の権利は、株というかたちで公然と売りに出され、婿養子や養子というかたちで持参金(実質的な購入代金)を持って武士の当主になれた。

献金によって武士の権利を買う行為も一般的におこなわれた。


一方、庶民の労働環境はどうだったのだろうか。


江戸の町はしょっちゅう大火があり、建物が多く焼失するので大工や左官など、職人が多かった。

大工の多くは昼食をふくめて一日三度の休憩があり、それを差し引くと勤務時間はなんと四時間程度で済んだという。

しかも腕のよい大工ならかなりの高給が与えられた。


そういった意味ではおいしい仕事だったが、いっぱしの大工になるには数年間、徒弟として親方のもとで無給のまま修行を積み、それからもしらばく下働きをさせられた。


独立するまでけっこう苦労しなくてならないし、腕が悪ければ仕事のお呼びはかからない。

いまなら大半の若者はやめてしまう職種だろう。


もっとひどいのが江戸の大店(おおだな)だった。

今で言えば大企業だが、当時は店の間口が10間を超えると一般に大店と呼ばれた。

1間は約1.8mだから店の幅が18m以上ということになるだろう。


江戸の大店の多くは、経営者の出身地から少年を店員(丁稚)として連れてくるのが一般的であった。


採用され店に入ったら四年間、彼らは丁稚としてこき使われる。

雑務と使い走りのほか一年目は掃除、二年目は下駄と番傘の管理、三年目は店で使う諸道具の手入れと管理をさせた。

用事のないときは、店先で行儀良く座っていなくてはならなかったという。


丁稚には衣服と食事は支給されるが、給金(給与)は一切出ない。

また、食事といっても朝は冷や飯と味噌汁のみ。昼食と夜食はそれに一菜つくだけで、副食が少ない白米一辺倒の食事のせいで脚気(かっけ)になる子も多かった。

入浴に銭湯へ行く以外、外出も原則として認められなかった。


こうした厳しい勤務と慣れない集団生活のために、二年目には半分以上の子供が奉公の辛さに耐えかねて店をやめてしまったというのも、頷ける。


四年後、手代(店員)となるわけだが、一、二年間は見習いとして二才衆と称され、雑用にも使役された。

同時に在庫管理も担当し、商品出入帳との齟齬があると帳尻があうまで寝ずに照合させられたので、蔵役時代に退職する者も多かった。

五回門限を破ると、理由の有無にかかわらず解雇された。


就職して八年が過ぎると「初登り」といって、故郷での三カ月の休暇を与えられるが、この間、本店では勤務状況を精査し、将来性のない者や業績の悪い者は解雇を通達した。

つまり、見習いの試用期間が八年もあるのと同じだ。


ちなみに「初登り」から六年後に「二度登り」、さらに六年後に「三度登り」があり、そこまで勤め上げる者は二十人に一人しかいなかった。

いかに商人の道が厳しいかがわかる。

だが長年勤め上げたらのれん分け(支店を出す)してもらったり、別家(分家)として本家の経営に参画できるようになった。


激務に耐えることができれば、最終的には富裕層に入れるチャンスもあったわけだ。


意外に知られていないが、江戸時代にも定年制度はあった。

年齢は決まっていないが、老化を感じると、家督を息子や婿にゆずって悠々自適の生活を送った。

しかも、これは武士も商家も同様だった。


ただ、能力や事情があって引退できない人もいる。


たとえば、有能だった江戸町奉行の大岡越前は、七十五歳で亡くなるまで現役の寺社奉行を続けていたし、『養生訓』を書いた福岡藩士の貝原益軒は、藩主や家中に朱子学を講じたり、『黒田家譜』の編纂したり、朝鮮通信使の接待、佐賀藩との国境問題の解決、藩政改革に奔走し、ようやく藩主から隠居を許されたのが、七十一歳のときのことだった。


しかしそれからも元気で執筆活動にいそしみ、七十四歳のとき『筑前続風土記』全三十巻を書き上げ、『大和本草』は八十歳、そして代表作の『養生訓』は八十四歳のときに完成させたものである。


蜀山人として狂歌で有名な大田南畝は、意外にも幕臣だった。

ただ、文筆で名を成していることもあり、上司や同僚の妬みもあったのだろう、長年支配勘定の地位に据え置かれたままだった。


当時は文筆のみで生計を立てるのは難しく、南畝は職を続けるしかなかった。

還暦を過ぎ、息子の定吉は三十歳近くになっていたが頼りなく、なかなか引退できなかった。

還暦には歯が五本しか残っていないほど老化が進んでいた。


六十四歳のとき、ようやく定吉の出仕が決まるが、まもなく精神に異常を来して免職となり、南畝は孫の鎌太郎が成人するまで隠居できなくなり、現役に終止符を打ったのは七十二歳のときだった。


いずれにしても、有能な人は昔も定年など関係なく、ばりばり働いていたのである。


by mnnoblog | 2017-09-29 08:41 | 歴史
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(excite ニュースの画像と記事より)

本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生・三重大教授が発表した。

変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。

鳥居和之・名古屋市蓬左文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。
本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。

書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。

「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています」とあった。

京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元の勢力下にある鞆の浦にいた。
義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。

光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。
藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。

◇発見された書状の現代語訳

仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。
しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。
そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、高野衆根来衆雑賀衆が相談され、和泉・河内方面まで出陣されることはもっともなことです。
恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。
ご心配されることはありません。
なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。
詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。
委細につきましては(私からは)申し上げられません。

by mnnoblog | 2017-09-21 08:43 | 歴史
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  (TOCANA の画像と記事より)

驚異的な技術力と知識を誇った古代エジプト文明。
だが、本当にそれらは独自に獲得されたものだったのだろうか?
これに疑問を投げかける新たな証拠が発見された。

科学ミステリーニュース「EWAO」によると、エジプト学の専門家アマンダ・アリス・マラヴェリア女史が自身の研究書で取り上げた「Djedkhonsuiefankh funerary papyrus」と呼ばれる、3000年前の古代エジプトのパピルス製絵画に、スフィンクスの背中に着陸したUFOが描かれていたことが判明したという。

問題のパピルスを見てみると、確かに、スフィンクスの背中に乗っている物体は、円盤型で、ドーム状の構造物もあり、まばゆいばかりの光を発している。
その上、機体下部からは着陸用の脚が3本も出ているではないか。

これはどう見ても古代エジプト文明で使用されていた“ボート”とは似ても似つかない代物だ。
現代人から見れば、この物体は疑いなくUFOとしか言いようがないのではないだろうか?

スフィンクスの起源が、古代エジプト文明よりも遥か古くにある可能性が指摘されている。
ウクライナの科学者らによると、表面に見られる侵食具合から、およそ80万年前の更新性カラブリアン期にスフィンクスはすでに存在していたはずだというのだ。
もちろん、その時代には、文明はおろか現生人類も存在しないため、普通に考えればトンデモ説である。

そして極めつけは、UFOの存在をこれでもかといわんばかりに明確に記述した、トトメス3世治世期(前1479年頃~前1425年頃)の文書『トゥリ・パピルス』の存在だろう。

R. Cedric Leonard訳によると、この文書には次のような内容が書かれているというのだ。

「22の年、冬の3つ目の月、6番目の時、命の家の書記官が炎のように燃えさかる奇妙な円盤が上空を飛んでいるのを発見した。それには頭がなく、その息は不快な臭気を放っていた。(中略)数日後、これまでにないほど多くの円盤が上空にあった。夕食時を過ぎると、それらは南方に向かい、これまでになく高く飛び上がった。すると、空から魚などが降り注いだ」 

by mnnoblog | 2017-09-15 08:03 | 歴史

伊能忠敬

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  (日経新聞”春秋”の記事より)

江戸時代に全国を測量し日本地図を作り上げた伊能忠敬の墓は、東京・上野の源空寺にある。
隣に眠るのは19歳年下の暦学の師匠、高橋至時(よしとき)だ。

忠敬は遺言で、若くして病に倒れた師の横に自らを葬るよう求めた。
享年73歳。超高齢化の今、生き方に学ぶところは多い。

酒造や米取引をなりわいとする下総国佐原村(現・千葉県香取市)の伊能家に忠敬が養子に入ったのは17歳の時。
家業をもり立てる一方、村名主として飢饉(ききん)の対応に当たった。

この間もひとりで天文学や数学を学び、隠居後、50歳で高橋に入門している。
幕府の許可を得て、北海道の測量に着手した時は55歳になっていた。

最後の遠征となった九州では持病を押し、ほとんど歯のない状態のなか、古希に近い体にむち打ち現場で指揮をとっている。
途中、片腕と頼む副隊長が40代で病死し、忠敬は「鳥が翼をもがれた」と嘆いた。

実はこれに先立ち、家督を継いだ長男の景敬も世を去っている。
家族は遠方の忠敬にあえて知らせなかったようだ。

まさに「一身で二生を経た」と言うにふさわしい。
持ち前の向学心と根気で歴史を切り開いたのだが、逆縁や逆境に耐え抜いた姿にも敬服する。

人生1世紀の時代は近そうだ。
長く働くにしろ、学び直すにしろ、思いもかけぬ悲嘆や苦難が待ち受けるかもしれない。
乗り越える勇気と知恵を忠敬の生涯から学んでおきたい。

by mnnoblog | 2017-09-01 08:18 | 歴史
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  (FUNDCの画像と記事より)

世界には190を超える国が現存していますが、その中で世界最古の国家が日本であることは、あまり知られていません。

世界の歴史は王朝の交代する歴史ですが、世界史の年表を見てみると、国家は数十年、または百年程度で成立と滅亡を繰り返していることがわかります。

人類史上でも、400年以上にわたって国を守りきれたのは数えるほどしか例がありません。
その中で、日本だけが古代から続く王朝を守り、今も存在しています。

例えば、中国の歴史は王朝交代の歴史であり、300年以上持ちこたえた王朝はありません。
1911年に辛亥(しんがい)革命が起きて、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が退位してから、中国に王朝はなくなりました。

また、ヨーロッパで最も歴史が古い王朝はイギリスですが、初代国王のウィリアム1世が英国を征服した1066年を起点とするなら、英国王室の歴史は9百数十年です。

そのイギリス王室よりも長い歴史を持つのは、地球上で日本の「大和王朝」だけです。

紀元前660年、新日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)という人物が大和の地に国を作ったのが、日本国の始まりとされています。
この人物こそが最初の天皇であり、後に「神武天皇」と呼ばれることになります。

神武天皇が国をつくったことは、正史である「日本書紀」に書かれています。
建国から現在まで、天皇は例外なく神武天皇の子孫によって受け継がれています。
神武天皇がつくった国「大和王朝」は、後に「日本」と呼ばれるようになりましたが、一度も途切れることなく同じ国が現在まで続いているのです。

2700年、125代の天皇の歴史は、世界に類を見ないものであり、こうした事実は日本人として誇るべきことだと思います。


by mnnoblog | 2017-05-14 08:42 | 歴史
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  (gooニュースの画像と記事より)

江戸時代から明治初期の大阪・中之島に、世界遺産・厳島神社(広島県)と同じような水上の鳥居が立っていたことを裏付ける写真が見つかった。

当時の広島藩蔵屋敷にあった厳島神社の船着き場近くにあり、安芸・宮島の「本家」と同様、米などの物資を運ぶ航海の安全を祈願して建立されたとみられる。

「天下の台所」と呼ばれた大阪には、各藩が回送した米や特産物などを保管する蔵屋敷が立ち並んでいた。
堂島川沿いにあった広島藩の屋敷は中でも大きく、船が屋敷内に入って荷揚げできる「船入」(船着き場)もあった。

今回見つかった写真には、船入の水面を海に見立てる形で建てられた鳥居が写っていた。


by mnnoblog | 2016-12-25 08:20 | 歴史
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  (TOCANAの記事より)

世界の七不思議の中で唯一現存する建造物、ギザの大ピラミッド。

一般的にはエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墓として紀元前2560年ごろに建築されたと考えられている。
ちなみに完成時の高さは146.6mで、14世紀にイギリスのリンカン大聖堂が建てられるまで、3800年もの間地球上で最も高い建造物だった。

古代エジプト人は巨大なピラミッドを一体どのような方法で、何の目的で建築したのか、いまだに多くの謎を残しているのだが、“数字にまつわる謎”も数々指摘されている。

今回、世界の不思議を探求するウェブサイト「EWAO」が報告したところによると、なんと光の速さとギザの大ピラミッドの座標がぴたり一致したと言うのだ。
これは単なる偶然か、それともピラミッドにはやはり何らかのメッセージが込められていたのだろうか……。

ギザの大ピラミッド内、大回廊が位置する中心部の座標は、北緯29度58分45.28秒、すなわち北緯29.9792度。
そして、真空中における光の速度の定数は、299,792.458km/sである。

ちなみにこの数値は1983年に定義されたもので、マイクロ波やレーザーを使用することにによって測定されたものだ。
桁数は違うものの、2つの数字の並びはぴたりと一致するのだ。
誤差は0.01%未満で、ピラミッドの中心部からほんの少し足を動かせば、座標と光速は完全に一致するという。
古代人は光の速度を正確に把握していたということだろうか……!?

経度はイギリスの旧グリニッチ天文台を基準としているが、緯度は地球そのものに基準を置いている。
もしも古代エジプト人が、意図的にピラミッドの緯度と光速を符合させていたなら、彼らは光の速さとともに、地球上の正確な位置情報も把握していたことになる。

現代に匹敵するレベル(かそれ以上)の数学、物理学、天文学の知識を持っていたことになりそうだが、実はピラミッドには地球や宇宙に関する数字の符合も見つかっているのだ。

ギザの大ピラミッドには230〜260万個の石が使用されていて、総重量は595万5千トンと見積もられている。
この数字に10の14乗を掛けると、地球の総重量になるというのだ。

また、ピラミッドの高さ(146.6m)に10の9乗を掛けると、地球と太陽の最短距離1億4700万kmとほぼ一致するという。
これを発見したのはエジンバラ大学の天文学者チャールズ・ピアツィ・スミス博士で、1864年出版の著書の中で発表され一大センセーションを巻き起こした。

博士によると、ピラミッドの長さからは他にも、地球の平均密度、地軸の歳差運動の周期などの数値が出てくるようだが、10の9乗のように何の根拠もない数字を掛け合わせることで、自分に都合のいい結果を引き出しているだけでは、という批判もあり“トンデモ説”と見なされることもあった。

また、メートル法は近代に生まれたもので、古代エジプト建築では「肘の角から中指の先までの長さ」と定義されるキュービットという単位が使用されていたと考えられている。
このことから、メートル換算で得られる数字は古代エジプト人とは無関係だとする指摘もなされている。

ピラミッドから続々と見つかる、奇妙な数字の一致は何を意味するのだろうか。
古代人の高度な科学知識が散りばめられているのか。それとも偶然、或いは研究者のこじ付けなのか。

誤差0.01%未満という恐るべき一致を、どう判断するかは読者に任せる他ない。
いずれにせよ、ピラミッドはいまだ多くの謎に包まれている。
我々が知っているのは、巨大モニュメントを作りだした古代の叡智のほんの一部なのかもしれないのだ。


by mnnoblog | 2016-12-20 08:13 | 歴史
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  (JBpress の画像と記事より)

火附盗賊改といえば、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』を思い浮かべる人も多いであろう。
特にテレビドラマで中村吉右衛門が演じる長谷川平蔵が「火附盗賊改である!」と見得を切るシーンは有名だ。

ところが、小説やドラマなどで有名な火附盗賊改という組織がどのような組織であったのかと問われると、私をはじめ多くの人が明確には答えられないのではないか。
そもそも江戸の治安を守っていたのは北町、南町の奉行所ではないのか?という疑問が湧いてくる。

では火附盗賊改とはどのような組織であったのだろうか。

それを知るには徳川幕府創世記の慶長・元和の時代まで遡る必要がある。
戦国の余風が残るこの時代には滅亡した大名家の残党とも言うべき人々が新たな職に着く事もできず困窮していた。
こうした者たちの多くが戦士としての生き方しか知らず、平和になりつつある世の中で燻り続けていたのである。

一度、戦闘員となった者たちが一般人として社会に復帰する事がいかに難しいかは、現代のアフガニスタンや内戦に明け暮れたアフリカ諸国を見れば理解できるだろう。

当時の関東一帯も同じような状況であった。
こうした者たちの一部、特に下級戦闘員出身の者たちが盗賊として跋扈していたのである。

そこで慶長16年に幕府は3人の足軽大将に部隊を与え常陸、下野に派遣する。
賊たちも真っ向から受けて立ち、戦端が開かれた。
このとき多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊三百余人の全てが斬首された。
この武断的な事例が後の火附盗賊改にも受け継がれていく。

江戸の町奉行が主に江戸市内の治安を維持していたのに対し火附盗賊改は市中だけでなく関東一円を活動の場所とした。
さらに捕物が中心の町奉行とは違い、初期の火附盗賊改は賊の殲滅をもっぱらの任務としていたのである。
もっとも時代が下ると火附盗賊改も捕物を中心するようになった。

とはいえ、犯人を現場で切り殺す権利が制限されていた町奉行とは違い、火附盗賊改は犯人を斬殺する事に制限を課されてはいなかったという。

組織としての大きな違いもある。

町奉行が役方と呼ばれる文官系なのに対し火附盗賊改は番方と呼ばれる武官系のトップである先手組頭が任命された。
先手組頭とは戦国の時代の足軽大将のことで、戦さの際には先鋒として敵陣に切り込む武将達だ。
華々しい部署ではあるが、損耗率が高く、勇敢な者でなければ勤まらない役職である。

江戸初期の火附盗賊改は戦国時代に武勇を馳せた家の子孫が任命されていたが、時代が下るにつれ家名と現当主との能力の差に乖離が現れるようになり、低い身分の者で武勇に優れた人物が任命されるようになっていく。

ちなみに町奉行がひとつの役職であるのに対し火附盗賊改は先手組の指揮官に与えられる任務であり、先手組頭の任務と兼務されていた。

先手組頭の役高は1500石で「足高制」という制度が用いられていた。
これは、1500石に満たない身分の者が先手組頭に任命された際に石高の不足分を任命期間中に限り支給されるというもので、上記の鬼平こと長谷川平蔵は400石の家禄で不足分がこの足高制によって支給されていた。

火附盗賊改は実入りよりも出費の方が嵩み多くの者が1~2年ほどで転任していたそうだ。
火附盗賊改の歴史200年の間に役200人もの者が火附盗賊改に任命されている。
そんな中にあって長谷川平蔵は9年もの間、火附盗賊改を勤めていた。

武官のトップといっても戦争のない時代なので彼らの任務は将軍の警護という地味なものが多く、出世に関しては行き詰まり感がどうしてもぬぐえない。

しかし、元禄の頃の久貝中左衛門正方のように文官としての能力も備えた者たちが現れ、番方から役方に取り立てられ、実入りの良い遠国奉行などに抜擢され、幕閣へと出世する者も現れる。
火附盗賊改は番方の出世登竜門のような意味合いが強くなっていく。

さて、江戸に名奉行がいたように、名火盗改と呼ばれる人物も存在する。
その一人が中山勘解由だ。

この男の苛烈さは同時代人を震え上がらせている。
中山は侍、町民の区別なく怪しいと思った者を捕縛し、自身が考案した海老責と呼ばれる拷問で自白させ多くの人々を火刑にしている。
その中には無実の人もおおく含まれていたのではないかと著者は指摘する。

ではなぜこの男が名火盗改なのか。
それは中山が火付改という職分を超えて、当時、町奉行でも手が出せなかった旗本出身のかぶき者集団「大小神祇組」を壊滅に追い込んだ為である。

アンタッチャブルな存在として武士、町人に恐れられていたアウトロー集団に果敢に挑んだ事により、その酷薄な面が相殺され名声を博したようだ。

また鬼平こと長谷川平蔵は公平な裁判と自費をなげうって犯罪者予備軍たる無宿人の更生に尽力した事が高く評価されている。

また火盗改の敵となる盗賊団も興味深い。

例えば日本左衛門こと浜島庄兵衛は100人から200人ほどの手下を率い東海道で暴れまわったという。
現地の奉行や近隣の大名も手が出ず、自由気ままに振舞っていた。
彼は基本的に殺しはやらなかったようだが、押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。
また長谷川平蔵の時代、江戸では武家屋敷ですら抜刀した押込強盗の被害にあうことも頻発していた。

その代表格の一人が大松五郎という男で、浜島庄兵衛と同じく押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。
多くの旗本の婦女が被害にあっている。
大松は長谷川平蔵に捕らえられ、速やかに斬首された。
本来これほどの大盗賊ならば市中引き回しのうえ獄門となるところだが、旗本の婦女子が陵辱されていたために、こっそりと処分されたようだ。

江戸300年はある種のノスタルジーを伴う牧歌的イメージが強く、人々が平和で安心して暮らしていた時代という思い込みがあるのだが、思っていた以上に治安が悪く、警察組織である町奉行や火附盗賊改が取締りに苦労していた一面が見えてくる。

また犯罪という側面から江戸を見ることにより、この時代を生きた庶民たちの欲望が活き活きと蘇ってくる。


by mnnoblog | 2016-12-03 08:15 | 歴史

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