私のゆるゆる生活

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カテゴリ:思い出( 14 )

初めてのスキー

野沢温泉スキー場(Google imagesより)
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私がスキーを始めて経験したのは大学4年の終わり頃だった。
卒論も終え一段落した頃、学友がスキーに行こうと誘ってくれた。

場所は野沢スキー場、スキー用具はレンタルだった。
同行したのはいずれも同じ学科の友達5~6名、2泊3日の日程だった。

野沢温泉に着いたら一面雪景色、その景色に一同感激。
宿に着くや早速近場のゲレンデへ、レンタルスキーを担いで一直線。

最初は緩やかな斜面で、斜滑降、登っては滑りを何回も行った。
スキーコーチは少し滑れる友達だった。

滑り終えた夜は高校の修学旅行と同じである。
高校と違うのは酒が入る事で余計盛り上がる。

温泉に入って囲炉裏端で野沢菜を肴に酒を飲みながら食事をした。
40数年前の野沢スキー場は未だ観光地化されてなく、泊まった宿も民宿風の簡素な佇まいで、2階の8畳ほどの部屋に5~6名がごろ寝した。

全員就職も決まり、寝床でワイワイ喋りあった。
皆、将来に向けて何の不安も持っていなかった。
話は夜遅くまで続いた。

2日目は、斜滑降からスキーを開いてのボーゲンを覚えようと、何回も登っては滑りを繰り返した。
その夜から、足の付け根辺りの筋肉が痛みだした。
ボーゲンの様な姿勢を普段していないので、使っていない筋肉が痛みだしたのだ。

3日目は、斜滑降とボーゲンで回転する滑りを何とか出来るようになってから、リフトを使って上ノ平に登り、そこから初級者コースを恐る恐る滑り降りた。

途中、急斜面もあったが何とか滑り終えた時、一種の達成感が湧いて来た。
何も出来なかった事が出来るようになったという満足感があった。

それ以来何回かスキーに行ったが、この時のスキーぐらい楽しかった事は無かった。
TVでスキーの映像が出ると、40数年前の事を今でも思い出す。
by mnnoblog | 2011-01-19 16:01 | 思い出
阪神淡路大震災(Google imagesより)
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16年前の1/17早朝、豊中の家で私はまだ眠っていたが、突然家がユラユラと動き始めた。
「地震だな」と思った直後、ドンと下から突き上げられ、大きな横揺れが襲って来た。
「これは大きい」と思って布団から飛び出した。
グラグラと大きな揺れが続く、「家が倒れるかもしれない」と感じた。

数十秒後、揺れは収まり、家は倒れなかった。
すぐ子供へ電話した。子供は何事も無かった。
階段を下りて、1階の両親の様子を見に行った。無事だった。

倒れたり、散らかった物をかたずけてからテレビを点けると、地震速報を伝えていた。
テレビ画面には、神戸の3~4ケ所から火災が発生している映像が映し出されていた。
報道アナウンサーが悲痛な声で、「火災が発生してます」と連呼していた。

外へ出ると、家の瓦が落ちて、自動車のボンネットを凹ましていた。
家の外壁に亀裂ができていた。
駅まで行くと、電車は動いていなかった。
屋根から瓦が落ちていたが、近所で倒れた家は無かった。

以上が地震当日の我が家の様子です。

その後、建物の耐震化が問題となった。

平成14年、文部科学省では全国の公立学校の耐震性の調査を行い、耐震診断を行うと共に耐震補強を実施してきたが、平成22年4月時点で耐震性のある小中学校は73.3%に達したと報告している。
しかし、まだ26.7%の小中学校は耐震性に不安が残っている。

「震災は忘れた頃にやって来る」と云う諺があります。
出来るだけ早く耐震性のある学校にして行く必要があると思います。

耐震化補強工事費の一部は各自治体で負担してますが、国からの補助金も出ています。
私見になりますが、2009年に実施した2兆円もの「定額給付金」をこの公立学校の耐震補強費に何故当てられなかったのか、不思議でなりません。
by mnnoblog | 2011-01-18 14:36 | 思い出

年始あいさつ回り

年始挨拶(Google imagesより)
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今日から仕事始めの会社も多いと思う。

私が大阪で営業勤務していた頃はテリトリーが西日本一帯だったので、新年の挨拶回りも滋賀県から九州の取引先を5日掛けて廻っていた。

1日目は大阪周辺の大手電機メーカーとその関連先を中心に廻り、2日目は北陸方面の取引先へ、3日目は広島の自動車メーカー及びその関連先、4~5日目は九州方面の自動車メーカーとその関連先をぐるりと廻っていた。

1~2日までは未だお正月気分で訪問先も対応してくれるが、3日目以降になると訪問先では仕事を始めているので、挨拶だけで訪れるのは失礼になる事もある。
従って新年挨拶半分、仕事半分といった方法を取って訪れる。

殆どの取引先は商社経由の商いだったので担当の商社の人と一緒に行動する事もあった。

北陸方面に行く時は雪が降っている事が多かったので、雪道の中に靴が入ってしまわないように気を付けたものだった。
その時のために替えの靴下を用意して出掛けていた。

日本独特の慣例行事とは言え、分刻みのスケジユールを立てて九州方面を廻りきった後会社に戻ると、取り引き先から幾つもの依頼が来ており、また先日挨拶を終えたばかりの所へ仕事に行く事も多かった。

今では懐かしい思い出である。
by mnnoblog | 2011-01-04 12:17 | 思い出

お正月

門松(Google magesより)
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最近はお正月が近づいてもその気になれない。

私の小さい頃は、お正月になると浮き浮きとした気分になったものである。
それはお年玉を貰えるという事もあったが、普段とは違う行事があったからである。

今頃になると、家で餅をついていた。
餅つき屋さんが石うすを持って来て縁側で餅をつく。
杵で餅をついているのをハラハラしながら見ていた記憶がある。
餅を混ぜる人の手をついてしまわないか、気が気でなかったからである。
つき立ての餅を食べるのがまた楽しみであった。美味しいのである。

それから、障子の貼り替えがあった。
貼り替え前に、障子を手で突き刺して破る楽しみがあった。
普段は障子を破ると叱られるが、この日だけは破る気持ち良さがあった。

お年玉を貰うと、凧を買いに行っていた。
上手く揚がる様に工夫して高く揚げたものである。

今はそういうものがない。正月らしいものが無いのである。

家で餅をつく事も無い。
障子紙も丈夫になって、余り汚れないので、貼り替える事も無い。
凧を揚げる場所も無い。

そんな昔を思い出しながら、コタツに入って、紅白を見ながら餅でも食べよう。
そして、除夜の鐘を聞きながら眠る事にしよう。
by mnnoblog | 2010-12-29 13:01 | 思い出

初めてのテレビ

最初のテレビはこんな風だった。そして画面調整パターン。(Google imagesより)
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昔、親父がテレビを買ったのはこんな感じのテレビだったと思う。60数年前である。

上図にある様に、テレビは当時高価で貴重品だったから大切に扱われ、テレビの画面を傷付けない様に、画面を覆う前垂れのカバーが掛けられていた。
化粧鏡の前垂れと同じ心理でテレビ画面を傷つけないためである。

テレビ放送が始まる前は、上図の様に画面調整用のパターンが流され、明暗、縦、横の位置調整をしてから見たものである。

とにかく、画面に映像が映るだけでワクワクした。
パターン画面だけでも、じっと見ていた記憶がある。

その当時の番組で一番良く見たのは、「月光仮面」だった。
テーマソングが子供向きで、すぐ覚えられる軽快な歌だった。

今見れば、白い頭巾で顔を覆い、白い衣装の背中には白のマントを翻して、スーパーカブの様なオートバイに乗って走っている姿はちっともカッコ良いものではないが、当時の子供たちの間では大流行し、頭を覆って「月光仮面」の真似をしたり、木の上から飛び降りたりして怪我をする子もいた。

悪者をやっつけるヒーローに憧れたのである。

力道山がルー・テーズを空手チョップでやっつけるレスリングが、大人の間で喝采を浴びせたのも同じ気持ちだったし、戦争に負けたうっぷん晴らしも心理的にあった。

NHKのホームドラマの先駆けとも云える「バス通り裏」も良く見た。
出演していた十朱幸代に憧れたものである。

テレビは洗濯機と冷蔵庫と並ぶ「3種の神器」と言われた時の事である。

by mnnoblog | 2010-12-11 12:02 | 思い出

子供の頃の遊び-3

Y社宅(Google imagesより)
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上図は私が住んでいたM社宅とは違いますが、同じ会社が作った社宅で、私の友達の多くがこの社宅に住んでいたので良く遊びに行ったものです。

私が住んでいたM社宅の写真は残念ながらありません。
私が住んでいた社宅は2階建てでした。

住んでいた社宅の庭に、屋根に接して、一本の木が立っていました。
私はその木に登って、一階の屋根に乗り移って、更に二階の屋根へ登る所があって、二階の屋根まで登ってはそこからの風景を眺めるのが、密かな楽しみでした。

危ないので、見つかったら叱られます。
ちょっとした冒険心を満足させてくれるので、良く登ってました。

社宅の中には大きな貯水池があって、その周りは柵で中に入れない様にしてますが、何処の誰かがこじ開けた穴があって、そこから中に入って網で魚やドジョウを取ってました。

池は少し深いので、中に入っているのを見られると叱られます。(この池は今でも残っているようです)
小さくく背を屈めて見つからない様にしていたのを思い出します。

その様な思い出がある社宅でしたが、老巧化が進み、今では取り壊され、大きなホテルとショッピングセンターが出来てます。

社宅の外で遊んだ土の道路も残って無く、小さい頃の面影が消えてしまったのは残念としか言いようがありません。
by mnnoblog | 2010-12-02 16:33 | 思い出

子供の頃の遊び-2

カッチン玉(ビー玉)(Google imagesより)
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コマ回し(Google imagesより)
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カッチン玉遊びは、投げて相手の玉に当てるのと、地面に小さい穴を掘ってそこに相手の玉をはじいて入れる遊びがあった。
カッチン玉も相手の玉に当て易いよう、玉の持ち方を変えて命中率を高める工夫をした。
当てられると相手に取られてしまうので、取り返すために相手の玉に神経を集中して投げたり、弾いたりして遊んだものである。

コマ回しは、コマに紐を巻き付けてから紐の端を持って投げてコマを回し、紐でコマ同士をぶつけ合いながら相手のコマを倒す遊びである。
ぶつけて倒されても、コマを取り合う事は無い。
重心が低く、重いコマが安定して回わるので、倒されない様にコマに鉄の輪をはめて競い合った。

余り太い輪を付けると、コマが重くなって、細いコマの芯では回転中に地面に穴をあけて早く止まってしまう。
太い芯に入れ替えて、芯の先を尖らせないよう少し削って、地面に穴があかない様にした。
また、コマを回す時の紐も丈夫で少し硬めを選び、コマに巻き付けた時グッと締まり、勢いよく投げても引きちぎれないものを使った。
                                つづく
by mnnoblog | 2010-12-01 06:39 | 思い出

子供の頃の遊び-1

ペッタンコ(メンコ)遊び(Google imagesより)
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私が子供も頃は今の様に殆ど車も走って無く、一戸建てが数十軒建ち並んでいた社宅の中は子供の遊び場としては安全そのものだった。

小学校の裏は小高い山になっていて、授業が終わると友達と一緒に裏山に登って良く遊んだものである。
山の上にはコンクリートで作られた戦時中の高射砲陣地跡が残っていて、その中の様子を興味深く調べたりした。
そこから南側には私が住んでいた社宅とは別のもう一つの社宅が数十軒横長に連ねていた。
そして、その先には高い山並みが覆いかぶさるようにそびえていた。

学校から帰ると、かばんを放り投げてすぐ外へ遊びに行ったものである。
外の道は今の様にアスファルトで舗装されてなく、土の地面そのままだった。

土の上でベッタンコ(メンコ)、カッチン玉(ビー玉)、コマ等で遊んだ。

べっタンコは四角い形が普通で丸型は少なかった。
四角い端を内側に曲げて、べっタンコの端を叩きつけられても裏返しにされない様に折り曲げ方を工夫した。
叩きつける方はべっタンコの端を良く見て、地面との間にどこか隙間は無いか探りながら、相手のベッタンコの端を自分のベッタンコで叩きつける。

叩きつける風圧で相手のベッタンコを裏返しにさせるのだから力が入る。
引っくり返ったべっタンコは自分のものになる。
小遣いで買ったべっタンコである。
子供ながら取られまいと必死でべっタンコに工夫する。
                               つづく                                
by mnnoblog | 2010-11-30 15:51 | 思い出

勤労感謝の日-3

高度成長からバブルへ(Google images より)
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そうした苦労を吹き飛ばしてくれたのは、同業他社との競争に勝って新規顧客を獲得できた時である。

新規顧客獲得を目指す時、そこへ既に同業他社が参入している場合は、情報入手が難しく、顧客側が本当に困っている場合でないとなかなか情報が入り難い。
同業他社が問題解決に対応出来ていない時は我々も可能性は薄いが、僅かな利点があればそこで勝負が付く事がある。
その僅かな利点を自社内で作り出すのは大変な作業を要するが、その結果、新規顧客を獲得できた時は仕事への充実感は深い。

30数年間仕事をしてきたが、大半は苦労して来た事が多く、充実感を味わえた事は数少なかった。
それでも私たちの時代は、今と違い高度成長の時代だった。
どの分野も大量生産の時期で、売り上げは毎年伸びた時期でもあった。
プラスチックは勃興期だった事もあって、顧客先の人達もプラスチックに関して詳しい知識を持っている人が少なく、その点私でも仕事をして行く上で楽な面があった。

高度成長が頂点に達しバブルを迎える頃は、連日の接待で飲めない酒を飲む日が続いて、深夜遅く帰る日が多くしんどかった事もある。

仕事を離れて10数年経つが、未だに年賀状を交わしているのは、若い頃一緒に仕事をして来た同じ会社の仲間達や顧客先の人達である。
今はゆっくりとゴルフを楽しみながら余暇を過ごしているが、時折夢を見るのは若い頃苦労した仕事の夢が多い。
by mnnoblog | 2010-11-25 07:33 | 思い出

勤労感謝の日-2

クレーム対応(Google images より)
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プラスチックへ切り替えて行く中で、顧客以外に自社と協力してくれる着色メーカー、塗装メーカー、メッキメーカーとの付き合いも必然的に生じ、彼らとの関係も気を使った。

しかし、折角切り替わっても、クレームが発生する事がある。
営業部門のサービスエンジニアの仕事にはクレーム対応も含まれる。
顧客を維持していく上で、クレーム発生した場合の対応が一番大切である。
顧客に安心して使用継続してもらう為には、迅速で的確な処理とクレーム発生の原因説明と今後の対策への理解が不可欠である。

対応を間違うと信頼が無くなり顧客を失ってしまう。
長い時間を掛けてお互い信頼しながら仕事をして来た事が、一瞬にして崩壊してしまう。
大きなクレームになると、自社の技術部門、製造部門への状況説明は勿論、協力メーカーにも説明して迅速な対応をお願いした。

顧客に対応して行く場合より、自社内の各部門と対応する方が難しい場合がある。
難しい対応は内部にある事が多かった。

課長になってからは、顧客に対して技術的な事だけでなく、価格設定、売上高、利益率等も考えながら部下と共に仕事をして行った。
顧客の方を見るだけでなく、部下の指導、課内のコミュニケーションも大切である。

日本国内には同業他社が多かった事もあって、品質競争価格競争に負けないよう、特に同じ顧客で同業他社の製品も使用されている場合は、他社に先駆けて顧客が欲しているものの情報を掴み取り、自社の製品に反映して行く必要がある。

品質向上を望まれている場合は、自社の技術部門、製造部門を説得し行動してもらわなくてはならない。
また、価格的な事柄の場合は、競争に打つ勝つために上司及び経理部門へ事情を説明し理解してもらわなくてはならない。
                                明日に続く
by mnnoblog | 2010-11-24 06:29 | 思い出

のほほんと---


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