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ベルリンの壁からの脱出

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 (Gigazine の記事より)

ベルリンの壁が崩壊するまでの1961~1989年にかけて、5600人を越える東ドイツ人がバルト海経由で40Km先にあるデンマークや、西ドイツの海岸線を目指した。

亡命に成功したのは僅か1000人未満でした。

また、ベルリンから国境を横断しようとした138人が殺害された事などが記録に残っている。

そんな中、当時の亡命者たちは、直線ルートをとるよりも巡回船を回避するルートを選び、1000人近くの人がバルト海を横断して脱出しました。

バルト海は悪天候の時、高波が起こりやすく、バルト海で溺死した人の数は最低でも174人と判明している。

1971年7月、ピーター・デーブラー氏は、東ドイツのキュールングスボルンから西ドイツのフェーマルン島までの48Kmまでの距離を、24時間休まずに泳いで亡命した。

彼が持っていた荷物は、栄養補給のダイエット用タブレットとチョコレートバーだけだった。

1971年11月、東ベルリンのカルステン・クランダー氏とディルク・デッカート氏は、ヒデンゼー島から手製の帆を立てたサーフボードに乗って海に入ったが、沖に出た所で荒海の飲まれ、二人は別々になった。

しかし、カルステン・クランダー氏はデンマークの島にたどり着き、ディルク・デッカート氏も24時間後にデンマークの漁船に救助された。

1969年10月、エンジニアだったマンフレッド・バーマイスター氏は、海中を進むため、排気管・車の加熱冷却ユニット・古いモペッドのモーターを組み合わせ、シュノーケルで呼吸可能な自家製の潜水用具を数カ月かけて作り、海岸リゾート地のヴストロへ行き、早朝潜水を開始し、無事デンマークのゲサー灯台に到達し自由を手にした。

※私はベルリン壁崩壊前に当地を訪れ、ベルリンの壁とそこから脱出しようとして亡くなった人のお墓を見て来ました。
数年後、ベルリンの壁崩壊後に訪れ、ブランデンブルグ門で、東ベルリンより西ベルリンを眺めた時、自由というものを実感したものです。
by mnnoblog | 2015-08-31 08:32 | 歴史

ナチスの財宝

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 (FUTURUS の記事およびNanboyaの”金の事で知っておきたいマル秘情報”の記事より)

ナチスは第2次大戦中に占領した先々で価値ある美術品を奪い去った。
有名な話は、ロシアの都市サンクトペテルブルクにあったエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」である。

全体を琥珀の装飾品で施した「琥珀の間」は、エカテリーナ宮殿がドイツ軍に占領されていた時、「琥珀の間」を解体して持ち去られ、旧東プロイセン地方のケーニヒスベルクに留め置かれたが、そこで消失している。

ヒトラーは莫大な財宝を所有していたとされている。
貴金属や美術品、スイス銀行に預けた預金などであるが、その多くが所在不明である。

そんな中、ポーランドの都市ワウブジフで、ヒトラーの金塊を積んだ列車が発見されたという。
換算総額100万ドル以上の財宝が、その列車内に眠っているそうだ。

そう主張するのは二人の男、ポーランド国内のある場所に埋まっていて、すぐにでも発掘可能だが、報奨金の約束をしない限りその場所は教えないという。

二人は財宝の換算総額の10%を要求している。

この財宝列車は、第2次大戦末期、迫りくるソ連軍から財宝を退避させるために移送されたが、目的地に着く前に突然消息を絶ってしまった。

その様な経緯から、財宝列車の発見はトレジャーハンターたちの長年の夢であった。

ところで、これらの財宝が発見された場合、その後の所有者は誰になるのであろうか?

もし、二人のトレジャーハンターの話が本当で、実際に財宝があったとすると、金の延べ棒には必ず刻印があり、純度と製造業者の商標、登録ナンバー等から、その金の出所を特定する事は可能である。

その結果、その金が「略奪されたもの」となれば、元の所有者の遺産相続人が所有権を主張する事になり、トレジャーハンターのものにはならない。

だからこそ、二人は「換算総額の10%」という形で要求しているわけであるが、現地当局からすれば「彼らが勝手にやったこと」となり、個人的な行為に国家がカネを出すのかといえば難しいだろう。

億万長者を夢見るトレジャーハンターは、財宝を発見したとしても、決してカネにならないのである。
ロマンと謎解きの夢見る気分だけに留めるべきものである。

実際、今迄にナチスが隠したとされる財宝は見つかっているのか?

ナチ党員たちが各国に隠した財宝の中で、西ドイツにあるルールの廃坑から150トンの金塊が、南ドイツのメルカースにある岩塩抗から多数の金塊と美術品が、オーストリアのアルトアウスゼーの岩塩抗からもたくさんの金貨を詰め込んだ箱が発見されている。

また、ナチスが略奪した財宝は、金塊に変えられ、その4分の3がスイスの銀行を通じて転売され、国の資金になっていたことが戦後の調査で分かっている。

さらに、イングランド銀行も、ナチスがチェコスロバキアから奪った約1000億円相当の金塊売却に加担していたことが後で文書で明らかになったが、イングランド銀行は60年以上もその事実を隠していたことが地元紙より報道されている。
by mnnoblog | 2015-08-30 08:04 | 歴史
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 (National Geographic、観音寺りえの超能力者の独り言、ウィキペディア の記事より)

13世紀の終わり、フランス王フィリップ4世により、「テンプル騎士団」は突如「異端審問」にかけられたが、彼らが保有したとされる莫大な財宝の秘密を一切明かす事なく、彼らは死んでいったとされる。

その財宝を彼らはどこに隠したのか、未だに謎に包まれたままになっている。

財宝以外に、騎士たちはエルサレムの「神殿の丘」を拠点としていた事から、「テンプル騎士団」が教会に大きな影響力を持っているのは「神殿の丘」から「聖杯」、「聖櫃」、「イエスの十字架」などを見つけ出したからではないかと言われている。

「テンプル騎士団」を壊滅した後、フィリップ4世の兵隊が「テンプル騎士団」のパリの金庫を調べたが、そこはもぬけの殻で、騎士の一人の証言によると、1307年「テンプル騎士団」が一斉逮捕された時、事前に情報を知っていた騎士団が、3台の荷馬車に財宝を載せて、密かに持ち出し、騎士団の船に積み込んだという。

船の行き先は不明で、スコットランドに向かったという説やスペインやコロンブスより早くアメリカ大陸に渡り、カナダのオークアイランドに隠したという話もある。

また、1800年代後半、フランスのラングドック地方にあるレンヌ・ル・シャトーで、ベランジェ・ソニエールという司祭が、教会を改修した時、埋まっていた財宝を発見したと伝えられているが、彼がどんな財宝を発見したのか分かっていない。

この言い伝えの謎が、1982年出版の「レンヌ・ル・シャトーの謎――イエスの血脈と聖杯」で、後にダン・ブラウンの作品「ダ・ヴィンチ・コード」で世界的なベストセラーとなる。

「テンプル騎士団」の一員だったスコットランドの貴族のヘンリー・シンクレアが、1398年ごろ、船でアメリカに渡り、先住民のインディアンと親密な関係になり、ミクマク族の土地であったオークアイランドに、ヘンリー・シンシァがヨーロパからの財宝を隠したという伝説がある。

先住民インディアンのミクマク族の旗には、十字の形が描かれていた。

近年では、オークアイランドに住む少年二人が「財宝はこの先に眠る」と書いた石碑を見つけた。
その後、フランクリン・ルーズベルト大統領が引退後、ここで資材を投じて財宝を捜したが見つからず、また俳優のジョン・ウェインも捜したが見つからなかったという。

「テンプル騎士団」とは、1119年ごろ、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立され、修道士であると同時に戦士であった。

第一次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たし、騎士団が保有する資産のほとんどを換金し、その管理のために独自の財務管理システムを作っていた。

1139年、教皇が「テンプル騎士団」に、国境通過の自由、課税免除、教皇以外の君主や司教への服従の免除など多くの特権を与えた。

1146年、ルイ7世は王国の国庫を「テンプル騎士団」に預ける事となり、1147年、第2次十字軍で、フランスのルイ7世を助けて奮闘した事により、パリ郊外に広大な土地を寄贈した。

ここが「テンプル騎士団」のヨーロッパにおける拠点となった。

「テンプル騎士団」への入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として、個人の私有財産を騎士団に寄贈して共有する事とし、巡礼者たちは現金を持って移動するリスクから騎士団に現金を預けるようになったことなどから、12~13世紀には莫大な資産が騎士団に集まった。

それによって、「テンプル騎士団」は欧州から中東に至る広い地域に多くの土地を保有し、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島を所有していた。

しかし、「テンプル騎士団」の壊滅は突如として訪れた。

13世紀の終わり、慢性的な財政難にあえいでいたフランス王フィリップ4世は、「テンプル騎士団」への債務の帳消しを図り、資産の没収を計画した。

1307年、フィリップ4世はフランス全土の「テンプル騎士団」を何の前触れもなく、一斉に逮捕し、「異端審問」にかけ、以後の活動を全面的に禁止する事にした。

1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意を受け、テンプル騎士団の禁止を決定したが、フランス以外は効果なかった。

その後、多くの団体が自らの出自を「テンプル騎士団」と結び付け、著名なものの中に”フリーメーソン”がある。

いずれにしろ、分かっている事は、「テンプル騎士団」は莫大な財宝を得たこと、騎士団の最期が唐突で混沌としている事から、失われた財宝を信じる人々にとっては、それを探し求めたい欲望にかられるのであろう。

「テンプル騎士団」を扱った作品として有名なのは、「アイバンホー」、「フーコーの振り子」、「ダ・ヴィンチ・コード」等がある。
by mnnoblog | 2015-08-29 08:38 | 歴史
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 (7/1、リヤド、ロイターの記事、及び現代ビジネスの記事より)

サウジアラビヤの富豪で投資家のアルワリード・ビン・タラール王子は、個人資産約4兆円の全額を、段階的に慈善事業に寄付すると発表した。

資金は自身の名を冠した慈善団体を通じ、医療関連や女性の権利向上などの分野に分配されるという。
同王子は、過去36年間、年額約1億ドルを慈善事業に寄付していた。

アルワリード・ビン・タラール王子とは、一体どんな人物なのであろうか?

アルワリード王子は、1955年、サウジアラビアの初代国王の21番目の息子であるタラールとレバノンの初代首相の娘モナとの間に生まれた。

サウド王家のルーツはベドウィン族であるが、父タラールの母はアルメニア出身のレバノン人で、正統なルーツのベドウィンではなかった。

また、父タラールはエジプトに1時期亡命していた事もあり、祖国に戻ったが、一切の政治活動を禁じられ、王位継承権も返上していた。

息子のアルワリード・ビン・タラール王子は、官界での出世を望む事ができないとのことで、アメリカのメロン大学で経営学を修め、ビジネスへ進出して行った。

父タラールより3万ドルを貰い、事業を立ち上げたが2~3カ月で資金は底をつき、シティバンクが一部を所有していたサウジ・アメリカン銀行から30万ドルを融資して貰った。

この融資を基に、リヤド士官学校の独身寮新築請負工事の受注に成功し、次々と公共事業を請け負い、2年目にして売り上げ15億の会社に成長した。

それから10年後、今度は倒産の危機に瀕していたシティバンクを6億ドルの出資で救済する事となった。
1991年、アルワリード王子は同行の株10%を取得した。

シティバンクはその後持ち直し、株価は上がり続け、アルワリード王子は莫大な利益を得た。

公共事業で成功したアルワリード王子は、つぎに外国企業に対するスポンサー事業に目を付けた。

サウジアラビアで外国企業が、事業活動をするためには、サウジアラビア人をスポンサーとして官庁の許可を申請しなければならない。

サウド家の王族という立場を利用すれば、他のスポンサーより早く許認可をとる事ができたが、その立場を利用することなく、足しげく官庁に通い、熱意をもって仕事を行った事が外国企業の評判を得て、多くの企業からスポンサー契約を取り付けた結果、1983年にはアルワリード王子の資産は4億5千万ドルになっていた。

公共事業とスポンサー業で蓄えた資産を元手に、倒産寸前のユナイテッド・サウジ・コマーシャル銀行を買収し、株式の7%を取得した。

単に買収するだけでなく、徹底的なコスト削減を断行し、銀行の再建に取り組んだ。
2年も経たないうちに、黒字転換を果たし、翌年にはサウジアラビアで最も高収益を上げる商業銀行となった。

1997年にはユナイテッド・サウジ・コマーシャル銀行とサウジ・カイロ銀行を合併させ、ユナイテッド・サウジ銀行を誕生させ、その後サウジアラビアで第5位の銀行に成長する。

銀行買収に成功したアルワリード王子は、食品と家畜に目を付け、サウジアラビア最大のスーパーマーケットチェーンである、アルアジジア・パンダの株を過半数取得し、別のスーパーグループのサボラと合併させる。

世界的な投資家として注目される様になったアルワリード王子は、積極的に外国の有名ブランドへ投資してゆく。
フランスのジョルジュ・サンクホテル、イギリスのカナリーワーフ、アメリカのニューズ・コーポレーションやユーロ・ディズニーランド等。

アルワリード王子は今年60歳。
若い頃に官界進出をあきらめ、ビジネス界に進んだが、財力と名声をバックに、今後サウジアラビアの政治改革に乗り出してくる可能性は十分あるだろう。
by mnnoblog | 2015-08-28 08:04 | 社会
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 (8/20、ロイター、及び1/30、HUFFPOST LIFESTYLE Japanの記事より)

2015年、英誌エコノミストの調査部門(エコノミスト。インテリジェンス・ユニット)による

1)世界で最も住みやすい都市
「世界で最も住みやすい都市」のランキングで、オーストラリアの「メルボルン」が5年連続で1位となった。

英誌エコノミストの調査部門は140都市を対象に、安定性・医療・文化・環境・教育・インフラなどの項目を基に「住みやすさ」を数値化した。

2位にはオーストリアの「ウィーン」、3位にはカナダの「バンクーバー」が選ばれた。
日本の「東京」は15位、「大阪」は17位、韓国「ソウル」は58位であった。

一方、最下位はシリアの「ダマスカス」、バングラデッシュの「ダッカ」、パプアニューギニアの「ポートモレスピー」、ナイジェリアの「ラゴス」、リビアの「トリポリ」が最下位に続いた。

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2)世界で最も安全な都市
同誌の調査部門は都市の規模やデータの入手しやすさに基づき、世界の都市50を選び出し、デジタルセキュリティ・医療の安全・インフラの安全・個人のセキュリティというカテゴリで安全性をランク付けした。

1位東京、2位シンガポール、3位大阪、4位ストックホルム、5位アムステルダムであった。

また、下位の都市は、46位リヤド、47位ヨハネスブルグ、48位ホーチミン、49位テヘラン、50位ジャカルタであった。
by mnnoblog | 2015-08-27 08:24 | 生活
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 (日刊工業新聞の記事より)

2015年5月、政府主導による産学官のロボット普及推進組織「ロボット革命イニシアティブ協議会」の創立総会が開催された。

「ロボット革命イニシアティブ協議会」には、企業・団体・大学など200以上が参加して、“オール・ジャパン”体制を構築し、世界一のロボット大国を目指す。

製造業では既に、溶接・搬送・仕分。組み立て・検査など高度な仕事をするロボット化が進んでいる。
組み立てなど、完全な自動化が難しいため、人とロボットとの連携、人と協調する自動化システムの開発が行われている。

国土交通省と経済産業省は、次世代社会インフラ用ロボットの開発・導入に向け、共同で事業を展開し、現場での検証・評価を実施している。

対象は、橋・トンネル・ダム・河川・災害状況調査・災害応急復旧で、14年度は89の技術応募があり、現場検証を65の技術、評価を39の技術で行っており、2017年度には本格導入を目指している。

政府は、手術支援ロボットの普及を「新医療機器」の面から、審査期間短縮等で後押しする。
脳卒中でマヒした手足の動き・知覚を回復させるニューロリハビリシステムや開腹せずに手術できる軟性内視鏡手術システムなどの開発を支援する。

農業分野では、作業者の高齢化や後継者不足の悩みが深刻で、作業負担軽減・生産性向上などの面でロボットへのニーズは高い。
農林水産省では、現場に合った果樹園で使うアシストスーツや草刈りロボットなどの機器開発を進めている。

サービス業では、物流などの各種バックヤード業務におけるロボットの活用が期待されている。
人手不足の中、単純作業に労力を費やしている現場が多く、そのニーズは多種多様であり、ロボット供給側と現場でのマッチング構築が求められている。

※日経新聞によれば、キャノンは2018年には、カメラ製造をロボットによって完全自動化するとしている。
どの国でも、経済成長してゆくと、労務費の上昇は避けられない。
ロボットによる生産の自動化が完成すれば、賃金の安い国で生産する必要が無くなる。
少子化が進む日本での生産に、ロボットがその可能性を見出してくれるものと思われる。
by mnnoblog | 2015-08-26 08:07 | 産業

江戸時代の旅

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 (ウィキペディア、国土交通省の記事より)

江戸時代には各地に関所や口留番所が設けられ、人の移動は厳格に制限され、一般の庶民が自由に旅をする事は出来なかった。
しかし、伊勢参りや日光東照宮参詣、善光寺参詣への旅は例外的に自由に許されていた。

現代のパスポートに当たる通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に申請し、庶民の場合は在住地の町役人・村役人又は菩提寺に申請した。

江戸時代、旅をする時の持ち物は、1764~1772年に書かれた「細身道中記」によると、
矢立て・扇子・糸・針・懐中鏡・日記帳・櫛・鬢付け油・提灯・ロウソク・火付け道具・付け木・麻網・印判・手拭・鼻紙・道中記・大財布・小財布・巾着・小刀・耳かき・錐・小算盤・風呂敷(大・小)・印籠(薬入れ)・合羽・笠などであるが,その他に衣類・股引き・脚絆・足袋・甲掛け・下帯・草履・弁当・脇差・煙草道具・旅枕なども用意していた。

これだけのものを持ち歩く為には、できるだけ小さく軽くなるように工夫して、腰に下げたり、行李に入れて振り分けたりした。

一般の旅人が宿泊する所は、旅籠屋と木賃宿があり、旅籠屋では夕食と朝食が出て、店によっては昼食の弁当を出す所もあった。

木賃宿では、旅人が米を持参し薪代を払って自分で炊くか、或は炊いて貰うかした。
木賃とはこの時の薪代、つまり木銭(きせん)を意味する。

東海道の難所と言われた大井川は橋が無く、歩いて渡るだけに制限され、「徒歩渡し」と言った。
大井川以外に安倍川や酒匂川などがあり、それ以外は渡し船を用いていた。
「徒歩渡し」の川は、水量の変化が激しく、川幅が広いため技術的に橋が架けられなかったと言われている。

江戸時代の旅人は、宿を夜明け前に出発して約8~10時間歩き、夕方日が暮れないうちに次の宿へ着く様にしていました。一日の行程は約30~40kmでした。

江戸から京都まで普通に歩くと約2週間掛かりますが、公用の荷物や手紙を届ける飛脚は3~4日で届けたそうです。
各宿場には飛脚を置いて、たすき掛けリレーのように、荷物や手紙を渡しながら走ったと言います。
by mnnoblog | 2015-08-25 08:30 | 歴史

参勤交代

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 (ウィキペディアの記事より)

参勤交代制度は、鎌倉時代に御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、寛永12年徳川家光によって軍役奉仕を目的に制度化された。
この制度により260年余りの長期政権を築く礎になった。

この制度では、諸大名は1年おきに江戸と自領を往復しなければならず、江戸を離れる場合でも、正室と世継は江戸に常住しなければならなかった。

人質を取るばかりでなく、国元から江戸までの旅費や江戸の滞在費も大名に負担させていたため、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たしていた。

しかし、藩財政が破たんして軍役が不可能になっては本末転倒であることから、「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行っている。

参勤交代を行うよう義務付けたのは、徳川御三家と1万石以上の諸大名であるが、例外として水戸徳川家や一部の親藩・譜代大名、旗本などは、領地が江戸に近い事で、江戸に常駐し、参勤交代は行わなかった。

参勤交代を行う大名は、偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられ、隣国同士の大名は、意図的に異なるグループに分けられた。

多くの大名が同時期に参勤交代をしたため、街道や宿場は混雑した。

参勤交代に関する資料は多数存在するが、加賀藩家老が書き残した「街道中日記」には、詳しい日付だけでなく、掛かった日数や費用、苦労話などが事細かに記載されている。

それによると、参勤交代は毎年4月に行われるが、その準備は半年以上前から行われ、予算の調達に始まり、他大名との間に宿場の重複が無いか偵察の者を出す事から始まっている。

徳川御三家や幕府の役人や勅使、他の大名行列などに気を遣い、なるべくすれ違わない様に旅行程の調整、宿代の交渉などその準備作業は多岐にわたる。

事前に幕府へ到着期日の届け出を出した以上、遅延が一日発生するだけで多額の費用損失に繋がるため、いかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸へ到着しなければならなかった。

橋や道路の整備が不十分な所では、あらかじめ橋や道路を作り、それでも通行が難しい場合は、近隣住民を大量に雇い、人が盾となって川の流れを堰き止めたという。

軍役である以上、大名は保有兵力である配下の武士を大量に引き連れただけでなく、掛かり付けの医者、茶の湯の家元や鷹匠までも同行しただけでなく、大名専用の風呂釜など多数の日用品まで持ち運んだ。

天保12年の紀州徳川家の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したとの記録がある。

移動も、自国城下町などでは自国の民衆に威厳を見せ付けるため、立派な服装を身にまとい、人を大量に雇ったが、城下を離れると、人数は半分ほどに減り、旅行に適した服装に着替えたとされている。
また、費用節約のため急ぎ足で行われ、一日平均6~9時間を掛け約30~40Kmであったという。

徳川御三家の大名行列が進んでくると、庶民は土下座して道を譲り、馬に乗っている場合は下馬しなくてはならなかった。
飛脚や出産に向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり列を乱したりする行為は無礼な行為とされ、「切り捨て御免」も認められていた。

参勤交代の行列は他家の領地を通過する場合、通過される大名は使者を遣わして贈り物などを供し、場合によっては道の清掃・整備や渡し船の貸し出しなども行っていた。
また、通過する方も、遣わされた使者に返礼の品などを贈るなどをして、互いに気を遣い合っていた。

各藩の参勤交代の道程、移動日数、行列規模、費用は
1)仙台藩伊達家、368km、8~9日、2000~3000人、3000~5000両
2)鳥取藩池田家、720Km、22日、700人、5500両
3)薩摩藩島津家、1700Km、40~60日、1880人、17000両
by mnnoblog | 2015-08-24 08:30 | 歴史
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 (日経新聞の記事より)

信じがたいほど切れるのに、折れずに曲がらない。切れ味を増そうとすれば折れ易くなり、折れにくくすれば曲がり易くなるという「鉄の本性」さえ覆してしまう「日本刀」

日本刀は武器という名の、この上なく美しい道具である。
日本刀は、道具として使用されただけでなく、所有者の地位によって、彼らにふさわしい美しい装飾が施された。

刀身部分には、熱処理によって「刃紋」と呼ばれる模様を施し、柄や鞘、鍔といった刀装具で飾った。
それら一つ一つに日本の文化の粋が集められた。

日本刀の愛好者は世界中に広まり、「最も強く、美しい武器」として特筆される存在になっている。
日本刀には、数々の伝説が存在する。

織田信長が所持していたと伝えられる「へし切長谷部」という名刀がある。
ある時、無礼をはたらいた茶坊主が、信長の逆鱗に触れ、慌てて棚の下に逃げ込んだが、信長はこの刀で棚ごと「圧し切って」成敗したという。

この刀は黒田官兵衛に与えられ、黒田家に代々伝えられ、現在は福岡市博物館に所蔵されている。

鎌倉時代、元寇に際して日本刀の威力を見せ付けられた大陸諸国に人々は、元寇後に日本刀を大量に買い占めたという記録がある。

第一次大戦の頃、日本刀の優秀さを知ったドイツが密かにその成分を分析し、得られた結果をもとに「モリブデン鋼」を開発したという。

日本刀の素材は、「玉鋼」と呼ばれる良質の砂鉄を木炭で低温還元する日本古来の「たたら製鉄法」を使って作られた炭素以外の不純物をほとんど含まない、極めて純度の高い鋼である。

この「玉鋼」に古い鉄などを混ぜて鍛えて「地鉄」とする。
刃の部分は炭素含量が多く硬い「地鉄」を、内側の芯には炭素含量が少ない軟らかい「地鉄」を組み合わせることで、信じがたい強靭さが生まれる。

「刃紋」は刀身に描かれる模様である。
刃の部分が強く焼入れされ、焼きの入っていない部分との境界が「刃紋」として現れる。

この様な日本刀の原型が出来あがったのは、平安末期であり、この時期に作られた刀のほとんどは「太刀」である。
刃の長さが約60cm以上の長刀で、刃を下にして腰につるし、馬上で戦闘を行うのに適した形状になっている。

これに対して「刀」は、「太刀」よりやや短く、刃を上にして腰に差して使用する。

鎌倉後期には、作り手が意図的に「刃紋」に変化を付ける「乱れ刃」が多く見られる様になり、日本刀は一つの頂点を極め、後世に名を残す名工を輩出した。有名な「正宗」がそうである。

戦国時代になると妖刀村正で有名な「村正」がある。
彼の作った刀によって、家康の祖父である清康、父の広忠は殺害され、家康自身も怪我をした。
さらに、息子の信康が切腹の時に使用した介錯刀も「村正」であった。

関ヶ原の戦いの後、世は泰平へと向かっていくと、刀に対するニーズや製法方法に変化が起き、日本刀はひとつの節目を迎える。

この時期以前の日本刀を「古刀」と呼び、以降を「新刀」と呼ぶ。

江戸後期には、近藤勇がその贋物を愛刀としていた「長曽祢虎徹」などの名工が、華麗な「刃紋」を持つ精緻な日本刀を作り出した。

幕末の戦乱時期には、刀剣の復古主義を唱える声が高まり、「水心子正秀」などが鎌倉時代にならった刀を作り、幕末の志士たちに支持を得た。

これらは「新々刀」と呼ばれ、勝海舟は「水心子正秀」の刀を愛刀としていたと言う。

その後、明治9年には廃刀令が公布されたが、作刀技術は国によって保護され、戦争を通じ、今日に引き継がれている。
by mnnoblog | 2015-08-23 08:30 | テクノロジー

火いずる国に生きる

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 (日経新聞の記事より)

日本国内には110の活火山があり、気象庁は47火山についてリアルタイムで活動を監視している。
日本には世界の活火山の7%が集中し、現在も噴煙を上げている桜島や小笠原諸島の西之島があり、2014年には御嶽山や阿蘇山、口之永良部島で噴火があった。

気象庁が最も警戒する火山の一つが桜島。
8/17、気象庁より噴火警戒レベルは避難準備「4」に引き上げられた。

島内とその周辺には、地震計や空気の振動を観測する「空振計」など、多くの観測装置が張り巡らされている。
鹿児島地方気象台では、火山性微動の揺れが一定基準以上に達すると、「基準値を越えました」と自動音声のアラームが鳴る。

噴煙の高さも山頂から2500mを超すと、「降灰予報」を自治体などの関係機関のほか航空各社に知らせる。

気象庁では、いったん噴火すれば首都圏への大きな影響が懸念される富士山では、観測体制の強化が進んでいる。

富士山は江戸時代の「宝永噴火」から300年以上、目立った火山活動が無く、現在も噴火の兆候はない。

国の「富士山ハザードマップ検討委員会」が、2004年にまとめた報告書では、「宝永噴火」並みの噴火が起こると、溶岩流は山頂から40Km離れた富士市の海岸近くや御殿場市まで到達する可能性があると想定している。
また、火砕流も山頂を中心に10数Kmの範囲で可能性があるとしている。

溶岩流や火砕流以上に大きな被害が懸念されるのが火山灰である。
大規模な噴火を起こした場合、高く吹き上げられた火山灰は、偏西風に乗って首都圏一帯に降り注ぎ、首都機能をマヒさせてしまう。

雨が降った場合、わずか5mmの降灰でも高速道路をはじめとする道路は通行不能になると想定している。
避難に支障が出るだけでなく、物流にも影響が出てくる。

また、細かい火山灰を航空機エンジンが吸い込んでエンジンが焼き付き、止まってしまう危険があり、航空機の運航ができなくなる。

送電線に火山灰が付着すると、送電線が切れたりショートしたりして、電力供給への影響も避けられない。

交通網の寸断やエネルギー供給の途絶で首都機能のマヒが長期化すると、経済的損失は想定の2兆5200億円を大幅に上回る可能性もある。

2011年の東日本大震災をきっかけに、日本列島は火山噴火や巨大地震が増える活動期に入ったと考える研究者も少なくない。

日本列島で暮らしていく以上、火山とどう向き合っていくかを、改めて考える時期に来ているのかもしれない。
by mnnoblog | 2015-08-22 08:30 | 環境

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