私のゆるゆる生活

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翌日は足摺岬を目指して土佐黒潮鉄道の線路に沿って車を走らせる。

途中、中村を経て四万十川を渡ったが、残念なことに川をよく見ることなく通り過ごしてしまった。


足摺岬スカイラインを利用して岬へ、岬の前で「ジョン万ハウス」に寄る。

中浜万次郎こと、ジョン万次郎の資料館である。

ジョン万次郎に関する資料や遺品、当時の捕鯨の資料を展示してあった。


足摺岬灯台は、四国の最南端に突き出るようにそびえ立っていた。

”海の航路を一人で守っているぞ”という感じの灯台であった。

展望台の近くにはジョン万次郎の像が静かに立っていた。


足摺岬を後にして宇和島城のある宇和島へ。

宇和島城は当初、藤堂高虎が築き、その後、伊達政宗の長男伊達秀宗が入城して2代藩主の伊達宗利が改修したとされる。

今は城へ入る門と天守閣が残っているだけで、少し寂しい感がする城であった。


その日は宇和島で一泊。翌日は佐田岬を目指した。

八幡浜を通過して佐田岬への道は細く、車がすれ違う幅はギリギリであった。

こんな狭い道でも車の往来は多く、すれ違う時は最大の注意を払いながら進み展望台まで行き着いた。

帰りも大変だったが、何とか通り抜け、松山を目指す。


松山では道後温泉を見学して風呂には入らず、また松山城にも寄らず、今治へ。

松山には以前行った事があり、道後温泉にも入浴した事があったので今回はスルーした。


佐田岬往復で時間を食ってしまったので、4日目は今治で宿泊。

翌日今治城へ行く。


今治城は江戸時代に藤堂高虎によって築城され、その後今治藩・久松松平の居城となった。

明治時代、廃城令でほとんどの建物が壊された。

昭和になって天守閣や櫓を再建し、当時の面影を偲ばせている。

今回の旅で一番のお城だった。


今治を後にして、西条、新居浜、川之江を通り過ぎ丸亀城へ。

江戸時代、京極氏の居城である。

丸亀市内の亀山に天守閣があり、大手門、御殿表門が現存し、石垣が立派である。


丸亀城の近くに、丸亀藩の中津万象園を訪れた。

面積5ヘクタールもある回廊式の大名庭園である。

琵琶湖に見立てた池があり、朱塗りの橋が印象的であった。


綺麗な庭園を見た後は一路大阪へ。

瀬戸大橋を渡り家路についた。


お遍路ではないが、一度四国一周を廻ってみたいと思っていたので、疲れはしましたが、思い出深い旅でした。


# by mnnoblog | 2018-07-21 08:15 | 思い出
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今から25年前の5月の連休に、大阪で単身赴任中だった私は、マイカーで四国一周を思い立ち一人で45日の旅に出た。


私の車には当時カーナビを搭載していなかった。

地図を片手に瀬戸大橋を渡り、香川、徳島、高知、愛媛、香川に戻り、また瀬戸大橋を渡って大阪へ戻るというコースでした。


瀬戸大橋が開通したのは5年前だったので、車で渡るのは初めてであった。

瀬戸大橋ができる前は、宇高連絡船で高松駅から宇野駅へ列車に乗ったまま船で渡ったものである。


眼下に見える瀬戸内海を見ながら、景色の良い場所で車を止め、車中から島々を眺めた。

通行時間は20分ぐらい、通行料は5000円だった。


香川では海上交通の神様である金刀比羅宮へ、御本宮まで785段の階段をようやく登り、展望台から讃岐平野を一望しました。

そこから栗林公園を散策した後徳島へ、鳴門を通り、人形浄るりの阿波十郎兵衛屋敷を訪問し、人形浄るりの資料館を見学。その日は徳島で一泊。


翌日は、室戸岬を目指して海岸線を走る。

太平洋の海岸は瀬戸内海の穏やかな海岸と違って荒々しく猛々しい。

その違いに驚きを感じながら車を走らせました。


室戸岬に到着したが、有名な場所の割に閑散としているのに驚きました。

そこでは灯台と中岡慎太郎像を見て、高知へ。


途中、安芸で三菱の基礎を築いた岩崎弥太郎の生家を見学。

簡素な茅葺屋根の農家の佇まいであった。

岩崎弥太郎は土佐藩の後藤象二郎らの知遇を得て政商に上り詰めて行ったとされる。


高知に入ってよさこい節で有名な「はりまや橋」を見に行ったが、朱塗りの橋は余りにも小さく、観光用として存在している姿に驚いた。


そこから高知城を見学し、桂浜にある坂本龍馬記念館へ、竜馬が駆け抜けたその生涯を見学し、銅像を見る。

その日は高知で一泊、宿の近くの食事処でカツオのたたきを食した。

(つづく)


# by mnnoblog | 2018-07-20 08:15 | 思い出
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少年時代に見た映画に「ターザン」がある。
ジャングルの王者として、悪人やジャングルの秩序を乱す猛獣をやっつける。

持っている武器はナイフだけ。
マスコットのチンパンジーを連れて、ジャングルの中を木から木へ飛び移りながら移動する。

悪人をやっつける時は、「アーア・アー」と雄叫びを上げながら、ジャングルの王者として象やライオンを呼び寄せる。

「ターザン」について改めて調べてみると、「ターザン」はアメリカの小説家エドガー・ライス・バローズが作り上げた架空の人物。

小説は10巻あるが、映画は1918年~1958年の40年間で32本製作されている。
また、1999年公開のウォルト・ディズニー制作のアニメ映画もある。

少年の頃、私が見た「ターザン」はどの作品だったか覚えていないが、恐らくジョニー・ワイズミュラーが「ターザン」役をした映画だったのではないかと思う。

当時、アフリカのジャングルがどの様な密林なのか、何の情報もなかった時代、生い茂った密林の中を猿のように蔦にぶら下がって移動していく「ターザン」の姿と、動物仲間と一緒に悪人をやっつけていく様子に、少年の私は感動したものである。

# by mnnoblog | 2018-07-19 08:10 | 思い出

初めてのスキーの思い出

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季節外れの記述になるが、私が初めてスキーを体験したのは大学4年の卒業間近かであった。

場所は野沢温泉スキー場、同行したのはいずれも同じ学科の友達5~6名。2泊3日の日程だった。

電車を乗り継いで着いた野沢温泉スキー場の景色に感激した。
宿に着くや、レンタルスキーを担いでゲレンデへ。
スキーコーチは少し滑れる友達だった。

その友達から緩やかな斜面で斜滑降を教わる。
滑り終えるとカニ歩きで斜面を登り、また滑る。

スキー板を立てての方向変換や安全な転び方、滑る時のエッジの使い方等覚えて行った。

滑り終えて宿に戻り温泉に入る。
囲炉裏端で野沢菜漬けを肴に酒を飲みながら談笑する。
高校の時の修学旅行と違って、酒が入るので余計盛り上がる。

50数年前の野沢温泉スキー場は未だ観光化されてなく、泊った宿も民宿風の簡素な佇まいで、2階の8畳ほどの部屋で一緒にゴロ寝した。

全員就職も決まり、みんな将来に向けて何の不安も持っていなかった。
夜遅くまで、寝床でワイワイ喋り合った。

2日目は、斜滑降からスキー板をハの字にして滑るボーゲンを習った。
何回も、カニ歩きで登ってはボーゲンで滑る事を繰り返したが、その夜は足の付け根当たりの筋肉が痛み出した。
ボーゲンのような姿勢を普段していないので、使っていない筋肉が痛み出したのだ。

3日目は、斜滑降とボーゲンで回転する滑りを何とかできるようになってから、リフトに乗って上ノ平から初心者コースを滑ることになった。

スキーリフトに乗るのも初めてであったが、上手く乗れた。
リフトからゲレンデを見下ろすと、沢山の人が滑っている様子が分かる。

上ノ平から恐る恐る滑り始めた。
途中急斜面もあったが、1~2度尻もちをつきながらも何とか滑り終える事ができた。

何も出来なかった事が出来るようになったという達成感なのか、それ以降スキーが好きになり、結婚するまで何回かスキーに行ったが、この時のスキーぐらい楽しかったことはなかった。

# by mnnoblog | 2018-07-18 08:35 | 思い出

ワンダーホーゲル部

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大学に入ってワンダーホーゲル部に入った。
高校卒業するまで住んでいた所は、直ぐ近くに山があったので山登りは好きだったからである。

部に入って、登山靴とリュックサックと寝袋を買った。
入部してしばらくしてからキャンプに行くことになった。
新入部員の私は、キャンプ用の大きな鍋を背負わされた。

リュックを背負い、寝袋を入れて、大きな鍋を担ぐと約15~20Kgになる。
平地を歩く時は何とか皆について行けたが、急な山道を登る時、体力のない私はへたばってしまった。

先輩に後ろを押してもらって、何とか山道を登ることはできたが、私としては「こんなはずじゃーなかった」という思いであった。
キャンプ地に着くとテント張りの練習、それが終わると大きな鍋でカレーを作る。

今迄カレーなんか作った事がなかった私は、先輩から教えてもらいながらの作業であった。
食事が終わると、みんなで山の歌を合唱する。
それはそれで楽しいが、私は疲れて早く眠りたい気持ちであった。

テントに入って寝袋の中に入り眠ろうとするが、先輩のいびきが煩くてなかなか寝れない。
私が思い描いていた山登りとは随分違っていた。
要するに、私自身集団生活に慣れていなかったのである。

キャンプが終わり、2~3か月後、今度は徒歩練習をする事になった。
登山靴を履き、ほゞ平地を約30~40Km歩く。
歩くのは問題なく、先輩に後れを取ることはなかった。

歩き終えた時は、足は豆だらけであった。
痛い思いをしながら家路についた。

2年生になると教養学部と工学部は校舎が違い遠く離れてしまう。
ワンダーホーゲルの部員の殆どは教養学部の学生であった。
私は2年生になってワンダーホーゲル部を退部した。

# by mnnoblog | 2018-07-17 08:23 | 思い出

のほほんと---


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