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江戸城無血開城(その2)

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慶応3年12月22日
徳川慶喜からの要求に対し、朝廷側は徳川幕藩体制による体制委任の継続を承認する旨の国論を出す。

慶応3年12月25日
討幕の大義名分を失った薩摩藩は、幕府側を挑発して、幕府側から戦端を開かせようと試み、全国から討幕・尊皇攘夷たちの浪人を集め、江戸市中で放火・略奪・強盗を繰り返し行い、幕府を挑発した。

堪りかけた幕府は、”江戸薩摩藩の焼き討ち”を決行する。

慶応4年1月3日
薩摩藩の幕府に対する蛮行に、徳川慶喜は「討薩ノ表」を発し、朝廷への訴えと薩摩討滅のため、京都へ1万5000の軍を進軍させた。

鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と接触し、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

慶応4年1月4日
大久保利通より「幕府軍の入京は新政府の崩壊に繋がる。徳川征討の布告と錦の御旗が必要」との進言に岩倉具視も賛同し、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、”錦の御旗”を与えた。

ここで、新政府軍が官軍となり幕府軍は賊軍となる。

慶応4年1月6日
徳川慶喜は当時大阪城にいて徹底抗戦を唱えていたが、会津藩軍事総督より、戦況の不利と新政府軍の”錦の御旗”の話を聞くや、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と共に城を抜け出し幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。

徳川慶喜が逃亡した理由として以下の事が考えられている。

1)徳川慶喜は天皇を掌握し、それに依存した政権を樹立するという構想だったにも拘わらず、新政府軍にそれを奪われてしまった時点で敗北を認めた。

2) 新政府軍は天皇の軍隊として”錦の御旗”を掲げられ、それに対戦することは朝敵とみなされることを恐れた。

慶応4年1月7日
朝廷において”徳川慶喜追討令”が出され、幕府軍は朝敵とされた。

慶応4年1月15日
新政府軍による徳川征討軍が江戸に押し寄せる時点で、徳川側が取り得る方法は、徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するという二つの選択肢があった。

陸軍奉行の小栗忠順や軍艦頭の榎本武揚らは、主戦論を主張したが、徳川慶喜は恭順の意固く、小栗は罷免させられる。

by mnnoblog | 2018-08-17 08:40 | 気になる事柄

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