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江戸城無血開城(その4)

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慶応4年3月10日
山岡はこの結果を江戸に持ち帰り、勝海舟に報告する。

勝海舟は東征軍との交渉を前に、もし東征軍が徳川幕府の嘆願を聞き入れず攻撃に移った場合、もしくは徳川幕府側の我慢の限度を超えた屈辱的な内容の条件しか提示してこなかった場合は、江戸を攻撃する前に江戸城及び江戸の町に放火して焦土と化し進撃を防ぐ考えであったという。

慶応4年3月11日
元薩摩藩島津家の天璋院篤姫から、西郷隆盛へ嘆願書が届けられる。

慶応4年3月13,14日
徳川幕府側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟が大総督府参謀・西郷隆盛と江戸薩摩藩邸で江戸開城について2日間に渡り交渉した。

その結果、西郷は大久保・勝を信頼して、翌日に予定されていた江戸城進撃を中止することとなった。

この交渉を前にして、西郷は東征軍が関東に入った時、東征軍先鋒参謀の木梨精一郎と渡辺清を横浜の英国公使パークスに向かわせ面談させている。

その時、パークスから
「我々が聞く処によると、徳川慶喜は恭順しているという。恭順している者に戦争を仕掛けるとは如何。いずれの国においても恭順、すなわち降参している者に向かって戦争をせねばならぬ道理はない」
また「徳川慶喜が外国へ亡命することも万国公法上は何の問題もない」
との話があった。

これを聞いた西郷は大きな衝撃を受け、江戸総攻撃は中止する考えであったという。
討幕強硬論者であった板垣退助もこの話を聞き、あっさりと討幕から引き下がったといわれる。

慶応4年3月20日
勝との会談を終えた西郷は急ぎ上京したのち朝議が催された。
強硬論者だった西郷が江戸総攻撃を中止する方向に転じた事に対して、木戸孝允、山内容堂、松平春嶽ら寛典論派にも驚きを持って迎えられた。

慶応4年3月28日
西郷隆盛は横浜の英国公使パークスを訪ね、事の経緯と新政府の方針を説明している。

慶応4年4月21日
東征大総督有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城。

これを持って、江戸城は無血開城となった。

明治2年9月28日
駿河で謹慎していた徳川慶喜は、戊辰戦争の終結により明治政府から謹慎処分を解除され朝敵指定を解かれた。

明治31年3月2日
”大政奉還”以来、31年振りに明治天皇と謁見する。

”江戸城無血開城”に貢献した勝海舟は自分の日記に、この時の気持ちを次のように記している。
「我が苦心30年、少しく貫く処あるか」。

明治41年4月30日
”大政奉還”の功により、明治天皇から徳川慶喜に勲一等旭日大綬章を授与される。

by mnnoblog | 2018-08-19 08:39 | 気になる事柄

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