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3万5千キロ歩いて地図を作った伊能忠敬

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1861年、イギリス海軍の測量船団が4隻、神奈川に来航し、日本沿岸の測量を幕府に願い、幕府はしぶしぶ許可しました。

幕府としては万一のことを考え、幕府の役人は「伊能地図」を持って各船団に乗船しました。

測量船団隊長は、その地図の精密さに驚愕したという事です。

隊長は「伊能地図」の写しを貰い、測量することを止め、測深だけ実施して引き上げていったという事です。

伊能忠敬は家業の酒造りを息子に譲り隠居した後、51歳の時に下総国佐原村から江戸に出て、20歳年下の幕府の天文方高橋至時の弟子となり、天体観測や測量を学ぶ。

高橋至時は幕府からの要請で「寛政暦」を作っていたが、より正確な暦を作るためには、子午線1度の距離を知ることが必要との事で、蝦夷から江戸までの測量を幕府に願い出ていた。

当時、蝦夷はロシアから侵略される情勢下にあったため、幕府はその願いを聞き入れ、1800年蝦夷測量の命令が下された。
高橋至時はそれを弟子の伊能忠敬に依頼した。

1800年、忠敬55才、第1次測量として内弟子3人、下男2人、測量機具を運ぶ人足3名、馬2頭を伴って江戸から蝦夷地へ出発する。
第一次測量にかかった日数は180日、一日約40キロ移動したと言う。

蝦夷測量で作成した地図が、幕府で高い評価を得て、第2次測量の計画が立てられ、その後も第3次測量~第10次測量まで行われる。

忠敬は第9次測量のみ71才と高齢のため参加しなかったが、第10次の江戸測量は参加している。
第10次測量で日本全土の測量を終えたことになる。

1818年、伊能忠敬は74歳で死去するが、その3年後に「大日本沿海興地全図」は完成する。

忠敬は地図を作成する時、地球を球体と考え、緯度1度の距離を28.2里とした。
緯度1度の距離は現在の距離と較べ約1000分の1の誤差であった。

忠敬は身長160センチ前後、体重55キロ程度と推定されている。
持病の慢性気管支炎と闘いながら、歩幅約69センチで約3万5千キロを歩き、作成した地図の精度は外国人も舌を巻いたと言われる。

上野の源空寺には、師匠だった高橋至時の墓の隣に、伊能忠敬の墓がある。

by mnnoblog | 2018-08-27 08:12 | 気になる事柄

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