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カテゴリ:気になる事柄( 24 )

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慶応4年1月23日
幕府では恭順側を中心とした人事が行われ、庶民を取り仕切る会計総裁の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁の勝海舟の二人が事実上の最高指揮官となる。

慶応4年1月25日
列強は局外中立を宣言する。

慶応4年2月9日
新政府総裁の有栖川宮熾仁親王(皇女和宮の元許嫁)が東征大総督に任命される。

慶応4年2月12日
徳川慶喜は江戸城を徳川慶頼と松平斉民に委託して、江戸城を退出し上野の寛永寺で謹慎する。

慶応4年3月6日
有栖川宮熾仁親王の東征軍は、京都を進発して駿河に到着する。
到着後、江戸城進撃の日は3月15日と決定される。

慶応4年3月9日
精鋭隊頭の山岡鉄舟が薩摩藩士の益満休之助を護衛に伴い、徳川慶喜の意をくむ嘆願書と共に、勝海舟からの使者として駿府に滞在している西郷隆盛を訪れる。

ここで初めて東征軍から徳川幕府へ開戦回避に向けた7か条の提示がなされた。
1、徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける事。
2、江戸城を明け渡す事。
3、軍艦を全て引き渡す事。
4、武器を全て引き渡す事
5、城内の家臣は向島に移って謹慎する事。
6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰する事。
7、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する事。
山岡は第二条以降は受け入れ可能だが、第一条のみは絶対受け入れられないとして断固拒否し、西郷と押し問答の末、西郷が預かる形で保留となった。

by mnnoblog | 2018-08-18 08:24 | 気になる事柄
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慶応3年12月22日
徳川慶喜からの要求に対し、朝廷側は徳川幕藩体制による体制委任の継続を承認する旨の国論を出す。

慶応3年12月25日
討幕の大義名分を失った薩摩藩は、幕府側を挑発して、幕府側から戦端を開かせようと試み、全国から討幕・尊皇攘夷たちの浪人を集め、江戸市中で放火・略奪・強盗を繰り返し行い、幕府を挑発した。

堪りかけた幕府は、”江戸薩摩藩の焼き討ち”を決行する。

慶応4年1月3日
薩摩藩の幕府に対する蛮行に、徳川慶喜は「討薩ノ表」を発し、朝廷への訴えと薩摩討滅のため、京都へ1万5000の軍を進軍させた。

鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と接触し、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

慶応4年1月4日
大久保利通より「幕府軍の入京は新政府の崩壊に繋がる。徳川征討の布告と錦の御旗が必要」との進言に岩倉具視も賛同し、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、”錦の御旗”を与えた。

ここで、新政府軍が官軍となり幕府軍は賊軍となる。

慶応4年1月6日
徳川慶喜は当時大阪城にいて徹底抗戦を唱えていたが、会津藩軍事総督より、戦況の不利と新政府軍の”錦の御旗”の話を聞くや、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と共に城を抜け出し幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。

徳川慶喜が逃亡した理由として以下の事が考えられている。

1)徳川慶喜は天皇を掌握し、それに依存した政権を樹立するという構想だったにも拘わらず、新政府軍にそれを奪われてしまった時点で敗北を認めた。

2) 新政府軍は天皇の軍隊として”錦の御旗”を掲げられ、それに対戦することは朝敵とみなされることを恐れた。

慶応4年1月7日
朝廷において”徳川慶喜追討令”が出され、幕府軍は朝敵とされた。

慶応4年1月15日
新政府軍による徳川征討軍が江戸に押し寄せる時点で、徳川側が取り得る方法は、徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するという二つの選択肢があった。

陸軍奉行の小栗忠順や軍艦頭の榎本武揚らは、主戦論を主張したが、徳川慶喜は恭順の意固く、小栗は罷免させられる。

by mnnoblog | 2018-08-17 08:40 | 気になる事柄
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NHKの大河ドラマ「西郷どん」を先取りする形になりますが、幕末維新の最大のクライマックスは、江戸城無血開城ではないだろうか。

討幕の意思強い官軍が、何故江戸へ進軍する前に討幕を止めたのか。
また、徳川家を存続させようと鳥羽伏見の戦いまで起こした徳川慶喜が、何故戦いから離脱し、それ以降官軍に恭順の姿勢を示したのか。

この何故について調べてみました。

慶応3年5月
薩摩藩は自藩が主導する「四候会議」で政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、将軍徳川慶喜の政治手腕に合い、薩摩藩の思惑は外れてしまう。
その結果薩摩藩は討幕へ舵を切ることとなる。

慶応3年10月14日
その前日、岩倉具視らの働きかけで、朝廷より”討幕の密勅”が下されたが、将軍徳川慶喜は「大政奉還」を上奏し、260年以上にわたって幕府が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。

「大政奉還」論は、横井小楠、大久保一翁、勝海舟らの開明的な幕臣などによって、早くから将軍徳川慶喜に提唱されていた。

「大政奉還」をする事で、将軍徳川慶喜は政権が天皇の下で一元化される新体制において、自らが主導的役割を果たす道を見出そうとしたとされる。

慶応3年12月9日
新体制へ移行するに当たり、将軍徳川慶喜を排除するため薩摩藩士大久保利通や公家の岩倉具視らが「王政復古」の大号令を発した。

これは、一部の公家と尾張藩、芸州藩、越前藩、土佐藩、薩摩藩、長州藩の有力者が主導する新政府を樹立するものであった。

内容は、
・将軍職辞職を勅許。
・京都守護職・京都所司代の廃止。
・幕府の廃止。
・摂政・関白の廃止。
・新たに総裁・議定・参与の三職をおく。
というものだった。

「王政復古」を発した後、明治天皇臨席の下での会議(小御所会議)が開かれ、岩倉具視らから徳川政権の失政を並べ、徳川慶喜の内大臣の辞任と幕府領の全納(辞官納地)が決定する。

慶応3年12月19日
薩長らの余りに強引な動きに、在京の諸藩たちも動揺が起こり、薩長たちに御所から軍隊を移動するよう要求があった。

徳川慶喜は大阪城で、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6か国公使と会談し、内政不干渉と幕府の外交権の保持を承認させた上で、朝廷に対し「王政復古」の撤回を要求した。

by mnnoblog | 2018-08-16 08:39 | 気になる事柄

幕末の偉人、横井 小楠

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横井小楠(1809~1969)は江戸幕府の鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わる幕府や藩を越えた新しい統一国家と社会の構築を考えた人である。

身分制度を廃止して、有能な人物を登用して政治を行い、外国との貿易を通じて国内の経済を発展する方法を模索した。

熊本藩士であったが、その有能さを認められ、福井藩に招聘された頃、吉田松陰と3日間会談する。

その後熊本へ帰るが、自宅へ坂本龍馬や井上馨等が訪問している。
その後、再度、福井藩主松平春嶽から福井藩へ賓師として迎えられる。

その頃、福井藩では保守派と進歩派が対立していたため、「国是三論」を著す。

「国是三論」とは、
1、富国論
 1)天地の気運に乗じ世界万国の事情に従い、天下の政治を行う。
  外国を相手に信義を守って貿易を行い、利益を上げれば、主君は仁政を
  施すことができる。
 2)藩政府の財源確保のため、産物を海外に売りさばけばよい。
 3)徳川一家の為の政治を廃し、国内政治や教育を一新し、富国強兵の成果
  を上げ、侮りを受けないようにする。
2、強兵論
 1)航海が開けている今日、日本を守るのは海軍を強くする。
  幕府が制度一新して国威を示せば、諸国の争いも仲裁できる。
3、士道論
  対立せず、文武の教えで政治を行えば、風俗は淳厚質実になる。


松平春嶽に謁見するため江戸に赴いた時に勝海舟と交流する。
松平春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として「国
是七条」を起草し、徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べる。

「国是七条」とは、
1、将軍は上洛して朝廷にこれまでの無礼を詫びる。
2、大名の参勤を止めて述職とする。
3、大名の妻を国元へ帰す。
4、外様、譜代の区別なく有用な人物を登用する。
5、大いに言論の道を開いて天下と共に公共の政を行う。
6、海軍をおこし兵威を強くする。
7、自由貿易を止めて官貿易とする。

慶応3年12月、朝廷から新政府に登用する旨の通知があり従四位下の位階を与えられ明治天皇に謁見している。

明治2年、十津川郷士らに襲われる。享年61才。

横井小楠を幕末の英傑たちは挙って一目置き、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作に至っては、師と仰いでいたと言われています。

坂本龍馬の「船中八策」や明治政府の基本方針である「五個条の御誓文」も横井小楠から影響を受けたものと言われています。

横井小南の主張は、「天皇の下に国家を統一し、人材を広く登用して議会政治を実現する」というものでした。

さらに、「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学なきがゆえに人情に渡ることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めて、また賞金和好となる。人情を知らば戦争を停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」と言っています。 

by mnnoblog | 2018-08-15 08:33 | 気になる事柄
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今年の夏は暑い。
暑いので思い出すのは”かき氷”である。

子供の頃、泳いだ後に食べる”かき氷”は何よりも美味しかった。
高く盛った氷を小さなスプーンで崩れ落ちないようにそっとすくって食べるようとするが、落ちてしまってもったいないと感じたものである。

好きだったのはミルククリームだった。
宇治金時も美味しかったが、小豆の味が甘すぎてあまり好きではなかった。
むしろ、抹茶だけの方が好きだった。

最近はいろいろな”かき氷”があるらしい。
フワフワ氷より氷粒が少し残っている方が食感が良くて私は好きである。

”かき氷”は清少納言の「枕草子」にも載っている事から、かなり昔から暑い日は食していたそうである。

NHKの朝ドラの「ごちそうさん」では、”焼き氷”が出てくる。
”かき氷”の上にカラメルソースを掛け、その上に焼酎を掛けて火をつけて焼いたものらしい。

私は未だ食していない。
一度食べてみたいと思っています。

by mnnoblog | 2018-08-13 08:36 | 気になる事柄
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最近、赤とんぼを見かけなくなった。
秋口になると沢山の赤とんぼが群れをなして飛んでいる光景を見る事がない。

調べてみると、2000年頃から急激に減少したらしい。
原因は田植に用いられる稲の育苗箱にあるらしい。
育苗箱に使用された殺虫剤が、稲と共に田んぼに植えられ、それが赤とんぼの幼虫に対して毒性を持ったものに変化してしまうらしい。

私の住んでいるところは田んぼの少ない所なのでよく分かりませんが、赤とんぼ以外にもシオカラトンボやイトトンボ、オニヤンマも見かけない。

私たちが食するお米を育てるために、トンボが犠牲になっている事は悲しい事である。

トンボ以外に殆ど見かけなくなったものに「ミノムシ」があります。
木の枝にぶら下がっていた「ミノムシ」です。
今では絶滅危惧種になってます。
中国からの寄生バエでやられてしまったとの事です。

人は環境を破壊して人にとっては住み良い様に変えて行ったものの、それによって失ったものがある事を再認識しなければならないと思います。

昨今、環境を取り戻す働きがあるものの、まだまだ元の環境に戻すまでには至っていません。
小さい生き物も生存できる環境づくりへの行動が望まれると思ってます。

by mnnoblog | 2018-08-12 08:35 | 気になる事柄
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企業全体の倒産は低水準なのに対し、老人福祉・介護事業の倒産が最近増えているらしい。

倒産の背景は、2000年に介護保険制度が開始されたのをきっかけに、「これからは高齢者が増える時代だ。事業をやれば利益が得られる」との思いから、介護など経験のない企業が参入して事業を立ち上げたものの、優秀な職員が集まらず、高齢者をケアしている人もそのような施設には入居を勧めない状態となり、当然ながら入居率の低下から経営の悪化を招き、さらに2006年には改正介護保険法が施工され、介護報酬の引き下げにより利益率が低下していった事が倒産の要因とされています。

倒産した事業のほとんどは、訪問介護や通いの介護サービスですが、老人ホームの倒産もあるとの事です。

老人ホームが倒産した場合、別の会社に事業運営が引き継がれる場合と引き継がれない場合があるようです。

事業運営が引き継がれれば入居者はそのままそこで生活を続ける事ができますが、引き継がれない場合は入居者は退去を余儀なくされ、新たな老人ホームを探さなければならなくなります。

2006年4月以降に開設された老人ホームでは「入居一時金の保全措置」が義務付けられてますが、保証金額は上限500万円です。

厚労省が最近発表した「介護保険事業状況報告」によれば、要介護・要支援と認定された65歳以上の人は、600万人近くに達しているとの事です。

今後益々介護が必要になる人は増えてくる事でしょう。
老人ホームに入居する場合は、よくよく調べて決断する必要があります。

考えるに、バランスの良い食事と適度な運動を続け、自分自身の健康寿命を伸ばすことが大切なのかも知れません。

by mnnoblog | 2018-08-04 08:35 | 気になる事柄
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2018年度の女子のプロテストが7/27に終了し、新たに21名のプロ選手が決定した。

合格した女子プロ選手は全員、今年後半の2部ツアーであるステップアップツアーに参加できるが、レギュラーツアーに参加できるのは今回のプロテストの1位で合格した者だけである。

残り20名の女子プロが、来年のレギュラーツアーに参加するためには、今年後半のステップアップツアーで賞金を稼ぎ、2018年度の賞金ランキングで1位に入るか、セカンドQTから参加して、ファイナルQTの上位30名程に入らなければ参加できないという狭き門である。

今年のレギュラーツアーに参加していても、来年のツアーに参加できるようになるには、2018年度の賞金ランキングが上位50名までと、2018年のレギュラー試合で優勝するか、2018年度のファイナルQTの上位30名に入らなければならないという過酷な戦いを制しなければならない。

現在、女子プロ選手は約1000名いるとされますが、その中で賞金だけで生活できる選手は50名ぐらいだと言われています。

賞金を稼ぐための試合数はおよそ年間30数試合、全国各地を転戦するための費用も莫大で、出場可能な試合に参加した場合年間600~700万円かかると言われています。

女子プロ達をTVで観戦していると実に華やかですが、本当に華やかに生活できるのは、ほんの一握りの選手だけという厳しい世界です。

by mnnoblog | 2018-08-03 08:10 | 気になる事柄
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今年の春、お花見も兼ねて池田城跡を見に行きました。

大阪府池田市にある池田城は、室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市、吹田市周辺)を治めていた領主池田氏の居城だった所です。

その池田氏に仕えた家臣に荒木村重という織田信長に反旗を翻し、信長からの攻撃から逃げ延びて、茶人となった稀有な戦国武将がいた。

荒木村重は池田一族の娘を娶り一族の一員となるが、三好三人衆の調略に乗り領主を追放して池田家を掌握する。
その後、池田氏が仕えていた織田信長に気に入れられ、織田信長の家臣となる。

摂津国人だった伊丹氏が支配する伊丹城を陥落させ、伊丹城の城主となり、摂津一国を任され、伊丹城を有岡城と改め侍地区と町人地区を土塁で囲んだ惣構えの城に改築。

その後、羽柴秀吉と共に三木城の合戦の時、何故か突然戦線を離脱し織田信長の命令に背き有岡城へ帰ってしまう。

謀反の理由は諸説あるが、当時の摂津国内は信長が進出するまでは国衆や寺内町・郷村などが独自に支配してた地域だった。
その様な気風から、信長の支配になる事を皆が快く思っていなかった為、村重は彼らの指示を受けた方が摂津地域を支配できると考えたとも。

また、村重は足利義昭や石山本願寺とも親しく、信長の石山本願寺への攻撃で困窮を極めていた状況を見て、兵糧を分け与えていたのが信長に知られた時の処罰を恐れた為ともいわれている。

荒木村重の謀反に驚いた信長は、明智光秀や旧知の仲である黒田官兵衛に説得させようとしたが、黒田官兵衛は逆に捉えられて牢獄に閉じ込められてしまう。

怒った信長は池田城に本陣を構え、有岡城へ攻撃を行う中、荒木村重は毛利軍と石山本願寺からの援軍を期待したが、援軍は現れず一人城から抜け出し、嫡男のいる尼崎城へ逃げるが、信長が有岡城を攻撃し荒木一族を皆殺しにされると毛利氏の下へ亡命し、尾道で隠遁生活を送る。

その後、信長が本能寺の変で亡くなると堺に戻り、千利休の弟子となるが、豊臣秀吉の時代になると秀吉からの処罰も恐れ出家し堺にて死去する。

戦国の時代とは言え、信長に謀反を起こした結果、一族は全て殺され自分一人生き残った村重という人物、彼がそこまで筋を通した理由は何だったのだろうか。
明智光秀が信長に謀反を起こした理由と同じなのではないだろうかと思ってしまいます。

by mnnoblog | 2018-07-30 08:40 | 気になる事柄
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報告義務ナシ、返済不要、将来の進路自由。

ただし基金に拠出したのが誰かは絶対に教えない。


かつて,こんなユニークな奨学金制度があった。

運営する「財団法人作行会」は約20年にわたり理工系の若手研究者1735人を支援した。


「作行会」は1963年に解散するが、解散記念謝恩会の席で初めて、足長おじさんはホンダの創業者、本田宗一郎氏と、その名参謀として知られた藤沢武夫氏だったことが明かされた。


本田と藤沢は、ホンダの株や配当金を基にして、1961年に苦学生への基金「財団法人作行会」を創設していた。


「作行会」から助成金を受け取った人の中に、宇宙飛行士の毛利衛氏がいる。


とことん匿名にこだわる。

実名を出してメッセージを込める。

どんな形にしろ、他者を思いやっての行いを知れば心が温まるものです。


by mnnoblog | 2018-07-24 08:18 | 気になる事柄

のほほんと---


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