私のゆるゆる生活

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カテゴリ:思い出( 20 )

私の少年時代-5

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家から港までは自転車ならすぐ近くだったので、よく父と釣りに行った。

小麦粉を練ったものやゴカイを餌にして釣り糸を垂れたが、残念ながら釣れた記憶はない。


父の会社の厚生施設に海水浴の「海の家」があった。

バスに乗って230分の所だったが、バスを降りて海岸まで松林が茂っていて、松林の中を海水浴場まで歩いて行った。

夏休みは海水浴へよく行った。


海と山が接近した土地だった。

2階の部屋から、高く聳える山が見えた。

その山を何も考えず、ボーと見ていた。

遠くまで山の峰が続いていた。


その昔、お城があった小高い山へ良く登りに行った。

お城の跡はなかったが、山の上からは住んでいる町が一望できた。

住んでいる社宅や小学校、港のほうには工場から煙が立ち上っていた。


父が外国雑誌を買ってきて、その中にアメリカのマンハッタンに建てられた「エンパイア・ステートビル」の紹介があった。

摩天楼が建ち並ぶニューヨークの景観に、アメリカはすごいと思った。

立派な家や自動車・電車、そして華やかな一般市民の服装、みんなアメリカにあこがれた。


私が住んでいる所で高い建物と言えば4階建てのアパート位なものだった。

レベルが違い過ぎた。

皆がアメリカのレベルに近づこうと思った。

日本が高度成長期に入ったのは、私が高校卒業した頃からだった。



私は高校卒業した後、父が転勤で関西で暮らすようになった。

その後、社宅は老朽化が進んで維持できなくなり2000年頃、社宅は取り壊され、その後はホテルとショッピングモールが建設された。


私の少年時代~青年時代にかけて、過ごした社宅は今はない。

線路もなくなった。

海が汚染され海水浴場の「海の家」も無くなった。


小学校は木造から鉄筋コンクリート造りとなったが、裏山はそのままだった。

中学の同窓会の時に裏山に上った。高射砲跡はそのまま残っていた。

少し怖かった場所が、なぜか懐かしく感じた。


振り返ってみると、私の少年時代は物は無かったが、それなりに豊かな時代であった。

子供同士のいじめもあったが、からかい半分程度のものだった。

赤ちゃんは全ての母親が背中にだっこしていた。

赤ちゃんにおっぱいを飲ませる時、胸をはだけても誰も奇異に感じなかった。


乗り物も少なく、社宅内の道で遊んでいても危なくはなかった。

みんな家で遊ぶより、真っ黒になりながら外で遊んでいた。

おおらかな時代だった。


by mnnoblog | 2018-06-08 08:10 | 思い出

私の少年時代-4

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小学生の頃、朝鮮戦争が始まったが、小さい頃の私にはラジオから聞こえる花菱アチャコや横山エンタツの漫才を楽しんでいた。

大笑いして聞いていたのを覚えている。


町には映画館が23軒あり、父と一緒に良く観に行った。

その中にジョン・ウェインの「黄色いリボン」があった。

父が映画の主題曲を時々口ずさんでいた。


学校からも教育の一環として学級全員で映画を見に行った事がある。

覚えているのは、小豆島を舞台にした「二十四の瞳」や主題曲が有名な「禁じられた遊び」等を観に行った。


町の電気屋さんでTVを見せる所があった。

時々見に行ったが、背の高い大人が中心を占め、子供は見る事ができなかった。


TVが我が家にやってきたのはそれから数年後の事であった。

「君の名は」が放映されていて、近所のおばさんたちも一緒に見に来ていた。

高価な品物だった所為かブラウン管の前には化粧鏡と同じく前垂れが付いていた。


社宅の外れに小さい運搬用の列車が走る線路があった。

線路に耳を押し付けて列車が走る「ガッタンゴットン」と言う音を聞くのが好きだった。

線路内には入れないように柵は設けてあったが、子供ならやすやすと入れた。


小学校の裏は小高い山があって、放課後になると友達と一緒に山を登って社宅を見下ろすのが好きだった。

草が生い茂った場所を見つけて穴倉を作り”秘密基地”にしたりしていた。


山の上には高射砲を設置した跡が残っていて、その穴の中に入るのが少し怖かった。


小学生の高学年になると自転車を買ってもらったが、それまでは子供用の自転車がなく、大人の自転車で三角乗りをして遊んでいた。

三角乗りはバランスをとるのが難しく、それでも器用に乗りこなしていた。


by mnnoblog | 2018-06-07 08:41 | 思い出

私の少年時代-3

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道もバスが通る道路以外は舗装されてなく、社宅内の道は土であった。

家は垣根で囲われていたので、砂ぼこりがしても家の中へ入ってくる事はなかった。


四つ角の所で近所の子供たちと一緒に野球をしたが、四つ角と言っても広い場所ではないので、バットで打ったボールが家の玄関のガラスを破ってしまう事もあった。


その時は全員で恐る恐る謝りに行った。

殆どの子供が顔見知りだったので、ガラスを破られた家の人も「気を付けて遊びなさい」程度の叱り方だった。


子供にはおおらかな時代であった。


お正月になると餅つき屋が来て、家の庭で餅を搗いてくれた。

杵で餅を搗く時、餅をこねる人の手に杵が当たらないかと気が気でなかった。

ホワホワの出来立ての餅を食べるのが、お正月の一番の楽しみだった。


また、畳屋さんが来て畳の張替えもしてくれた。

長く太い針で畳を縫う職人さんの動きを眺めるのが好きだった。

畳を縫った後、針を持ちながら肘でゴリゴリと縫ったところを押す動作が力強よかった。


社宅内には銭湯があって、小学校低学年まで銭湯に行っていたが、その後、家にお風呂が付く様になった。

五右衛門風呂であった。お風呂は確かコークスで沸かしていた。


暫くして、電気洗濯機が家に備えられた。

それまでは、洗濯板を使っての洗濯だった。

洗濯機で洗濯した後は、洗濯物をローラーに巻き付けてハンドルを廻して水を取る初期の洗濯機であったが、母は大喜びであった。


社宅の中にはお店もあったが野菜が中心で、お魚は魚屋さんが荷車に乗せて売りに来ていた。

新鮮な魚を食べていた。

アサリの味噌汁も良く食べていた。


また、散髪屋もあって1回/月必ず行くので、散髪屋さんとは小さい時から顔なじみで、高校卒業するまで私の頭はバリカンによる丸坊主であった。


by mnnoblog | 2018-06-06 08:35 | 思い出

私の少年時代-2

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小学校は幼稚園よりずっと近かった。

木造の学校で、毎朝朝礼がある。

みんな校庭で整列して校長先生の訓示を聞き、ラジオ体操をしてから下駄箱へ靴を入れ素足で教室へ入る。


昼食は脱脂粉乳とパンの給食であった。

脱脂粉乳はまずかったが、私は嫌いではなかった。

お代わりをしていたぐらいである。


昼休みは長い廊下の端で本を読んだりしていた。

向かい側に座って本を読んでいる女生徒が眩しかった。

友達同士でふざけ合って廊下を走り回った生徒がいたが、必ず先生に叱られた。


校庭にはジャングルジムや鉄棒、5メートルほどの高さがある棒立てがあり、度々てっぺんまでよじ登った。

校庭の隅には土俵もあったと記憶している。

その当時、土俵のある学校が多かった。


授業が終わると掃除がある。

生徒みんなで、机を片付け、雑巾で床や机を教室を磨いた。

廊下は腰を屈めて走りながら拭いて行った。

廊下の掃除が大変だった。


学校へは運動靴を履いて通っていたが、普段は下駄を履いて遊んでいた。

良く鼻緒が切れた時、下駄の底に短い棒を鼻緒に巻いて修繕したものである。

下駄を履いて歩く時「カランコロン」となる音が好きだった。


遊びはビー玉かメンコか投げゴマが多かったが、缶蹴り、竹馬、凧揚げも良くやった。

メンコ遊びでは、ひっくり返されないようにメンコの端を折り曲げて隙間ができないよう工夫した。

竹馬も、足を乗せる板がズレ落ちないように、縄帯で縛る工夫をした。

凧揚げでは、凧を引っ張る糸のバランス、尾の長さを考えできるだけ高く揚がる工夫をした。


春になると近くの小川や池に行って、鮒やドジョウを採りに行った。

夏はトンボやセミを採りに行った。

採る道具は棒の先にとりもちを付けた物だったが、捕るのは難しかった。

虫網で捕るほうがやさしかったが、敢えて難しい方で捕る方を選んだ。


トンボ採りはオニヤンマ捕りを目指したが、なかなか捕れなかった。

蝉はクマゼミが目標であった。アブラゼミはいつでも捕れた。

夕方になると小川の側で赤とんぼが群れを成して飛んでいたのを覚えている。


夜になると夜空は星が無数に輝いていて、天の川が良く見えた。

また、蛍も飛んでいて、数匹捕まえて、蚊帳の中に入れて楽しんだ。

蚊帳の中の青い光がはかなく素敵に思えた。


私が少年だった頃は必ず見れた天の川も蛍も今は見る事ができない。


蚊帳の中に入る時は蚊が入らないように蚊帳の裾をバタバタさせながら入ったものである。

私は朝起きると蚊帳を畳むのが好きで、綺麗に畳んでいた記憶がある。


by mnnoblog | 2018-06-05 08:28 | 思い出

私の少年時代-1

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私は昭和18年に生まれた。

いわゆる戦中派である。

戦中派と言っても、戦争の事は殆ど覚えていない。

覚えている事は、家のガラスが割れないように紙でペケ印に貼ってあったのを何故か記憶している。


また戦後直後の頃は、戦後の食糧事情が悪い時期だったのであろう、母が一生瓶の中の米を精米の為に棒で突いていた事やその米をかまどに薪をくべながらご飯を炊いていた事を薄っすらと覚えている。


かまどで炊いたご飯は必ずおこげができて、そのおこげを食べるのが好きであった。

その後、数年たって電気炊飯器を購入したが、あのおいしかったおこげを食べることが無くなっていた。


私は450戸もある大規模な社宅に住んでいた。

社宅は平屋や2階建ての木造で、私は2階建ての家に住んでいた。

庭も広く敷地は6070坪ほどあった。


戦後食糧事情もあって、何処の家でも鶏を飼っていた。

2~3匹飼っていたと思う。

朝、鶏の鳴き声で目が覚めた。

毎朝、採れたての卵を食べていた。


犬も飼っていたことがあったが、直ぐ亡くなってしまったのでその犬をかわいがった記憶は余りない。

しかし、近所で飼っていた犬が良く遊びに来ていて、その犬をかわいがった。

その当時、散歩のときは紐を付けていたが、それ以外の時は犬は放し飼いであった。

家の中で飼うなんてことはどこの家にもなかった。


都会ではなく地方都市であった為か進駐軍の記憶は殆どない。

ジープが走っていたのをかすかに覚えている。


幼稚園はミッション系の幼稚園で家から幼稚園まで1Kmはあり、園児にしては遠かった。

バスは走っていただろうが本数も少なく、自動車は走ってなく、ほとんどの人が歩きで、自転車も少なかったため通園に危険な事はなかった。


近所の子と3人で通っていたが、小、中、高と学校が一緒だったこともあり、3人は今でも幼馴染同士である。


ミッション系の幼稚園だった事で、キリストへのお祈りを覚えさせられたのであろう、後に母から聞かされたのは、毎晩眠る前に、数珠を持ってお祈りをしていたそうである。


by mnnoblog | 2018-06-04 08:14 | 思い出

カローラスプリンター

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私は27歳で運転免許を取ってから、最初に購入したのが「カローラスプリンター」である。

当時は日産「サニー」「ブルーバード」、トヨタ「パブリカ」「カローラ」「コロナ」が大衆車として、互いに競い合って宣伝していた。

特に日産「サニー」とトヨタ「カローラ」の競争は激しく、「サニー」に対して「カローラ」の”100ccの余裕”のCMは記憶に残っている。

そのような中で、私はクーペスタイルの「カローラスプリンター」が気に入って購入した。
1200ccの4速マニアル車であった。

当時、名古屋に住んでいたが、実家の大阪まで名神高速を度々往復した。
休みの日は名古屋周辺をドライブするのが楽しみであった。

結婚した時はこの車で九州へ新婚旅行に出かけた。
殆ど故障せず良く走ってくれた。

「カローラスプリンター」から現在の「ボルボ」まで乗り換えたのは5台。

「カローラスプリンター」には安全装置も2点式のシートベルトのみで「ボルボ」とは安全面で比較はできないが、今でも一番愛着のある車である。

by mnnoblog | 2018-05-31 08:26 | 思い出

初めてのスキー

野沢温泉スキー場(Google imagesより)
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私がスキーを始めて経験したのは大学4年の終わり頃だった。
卒論も終え一段落した頃、学友がスキーに行こうと誘ってくれた。

場所は野沢スキー場、スキー用具はレンタルだった。
同行したのはいずれも同じ学科の友達5~6名、2泊3日の日程だった。

野沢温泉に着いたら一面雪景色、その景色に一同感激。
宿に着くや早速近場のゲレンデへ、レンタルスキーを担いで一直線。

最初は緩やかな斜面で、斜滑降、登っては滑りを何回も行った。
スキーコーチは少し滑れる友達だった。

滑り終えた夜は高校の修学旅行と同じである。
高校と違うのは酒が入る事で余計盛り上がる。

温泉に入って囲炉裏端で野沢菜を肴に酒を飲みながら食事をした。
40数年前の野沢スキー場は未だ観光地化されてなく、泊まった宿も民宿風の簡素な佇まいで、2階の8畳ほどの部屋に5~6名がごろ寝した。

全員就職も決まり、寝床でワイワイ喋りあった。
皆、将来に向けて何の不安も持っていなかった。
話は夜遅くまで続いた。

2日目は、斜滑降からスキーを開いてのボーゲンを覚えようと、何回も登っては滑りを繰り返した。
その夜から、足の付け根辺りの筋肉が痛みだした。
ボーゲンの様な姿勢を普段していないので、使っていない筋肉が痛みだしたのだ。

3日目は、斜滑降とボーゲンで回転する滑りを何とか出来るようになってから、リフトを使って上ノ平に登り、そこから初級者コースを恐る恐る滑り降りた。

途中、急斜面もあったが何とか滑り終えた時、一種の達成感が湧いて来た。
何も出来なかった事が出来るようになったという満足感があった。

それ以来何回かスキーに行ったが、この時のスキーぐらい楽しかった事は無かった。
TVでスキーの映像が出ると、40数年前の事を今でも思い出す。

by mnnoblog | 2011-01-19 16:01 | 思い出
阪神淡路大震災(Google imagesより)
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16年前の1/17早朝、豊中の家で私はまだ眠っていたが、突然家がユラユラと動き始めた。
「地震だな」と思った直後、ドンと下から突き上げられ、大きな横揺れが襲って来た。
「これは大きい」と思って布団から飛び出した。
グラグラと大きな揺れが続く、「家が倒れるかもしれない」と感じた。

数十秒後、揺れは収まり、家は倒れなかった。
すぐ子供へ電話した。子供は何事も無かった。
階段を下りて、1階の両親の様子を見に行った。無事だった。

倒れたり、散らかった物をかたずけてからテレビを点けると、地震速報を伝えていた。
テレビ画面には、神戸の3~4ケ所から火災が発生している映像が映し出されていた。
報道アナウンサーが悲痛な声で、「火災が発生してます」と連呼していた。

外へ出ると、家の瓦が落ちて、自動車のボンネットを凹ましていた。
家の外壁に亀裂ができていた。
駅まで行くと、電車は動いていなかった。
屋根から瓦が落ちていたが、近所で倒れた家は無かった。

以上が地震当日の我が家の様子です。

その後、建物の耐震化が問題となった。

平成14年、文部科学省では全国の公立学校の耐震性の調査を行い、耐震診断を行うと共に耐震補強を実施してきたが、平成22年4月時点で耐震性のある小中学校は73.3%に達したと報告している。
しかし、まだ26.7%の小中学校は耐震性に不安が残っている。

「震災は忘れた頃にやって来る」と云う諺があります。
出来るだけ早く耐震性のある学校にして行く必要があると思います。

耐震化補強工事費の一部は各自治体で負担してますが、国からの補助金も出ています。
私見になりますが、2009年に実施した2兆円もの「定額給付金」をこの公立学校の耐震補強費に何故当てられなかったのか、不思議でなりません。

by mnnoblog | 2011-01-18 14:36 | 思い出

年始あいさつ回り

年始挨拶(Google imagesより)
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今日から仕事始めの会社も多いと思う。

私が大阪で営業勤務していた頃はテリトリーが西日本一帯だったので、新年の挨拶回りも滋賀県から九州の取引先を5日掛けて廻っていた。

1日目は大阪周辺の大手電機メーカーとその関連先を中心に廻り、2日目は北陸方面の取引先へ、3日目は広島の自動車メーカー及びその関連先、4~5日目は九州方面の自動車メーカーとその関連先をぐるりと廻っていた。

1~2日までは未だお正月気分で訪問先も対応してくれるが、3日目以降になると訪問先では仕事を始めているので、挨拶だけで訪れるのは失礼になる事もある。
従って新年挨拶半分、仕事半分といった方法を取って訪れる。

殆どの取引先は商社経由の商いだったので担当の商社の人と一緒に行動する事もあった。

北陸方面に行く時は雪が降っている事が多かったので、雪道の中に靴が入ってしまわないように気を付けたものだった。
その時のために替えの靴下を用意して出掛けていた。

日本独特の慣例行事とは言え、分刻みのスケジユールを立てて九州方面を廻りきった後会社に戻ると、取り引き先から幾つもの依頼が来ており、また先日挨拶を終えたばかりの所へ仕事に行く事も多かった。

今では懐かしい思い出である。

by mnnoblog | 2011-01-04 12:17 | 思い出

お正月

門松(Google magesより)
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最近はお正月が近づいてもその気になれない。

私の小さい頃は、お正月になると浮き浮きとした気分になったものである。
それはお年玉を貰えるという事もあったが、普段とは違う行事があったからである。

今頃になると、家で餅をついていた。
餅つき屋さんが石うすを持って来て縁側で餅をつく。
杵で餅をついているのをハラハラしながら見ていた記憶がある。
餅を混ぜる人の手をついてしまわないか、気が気でなかったからである。
つき立ての餅を食べるのがまた楽しみであった。美味しいのである。

それから、障子の貼り替えがあった。
貼り替え前に、障子を手で突き刺して破る楽しみがあった。
普段は障子を破ると叱られるが、この日だけは破る気持ち良さがあった。

お年玉を貰うと、凧を買いに行っていた。
上手く揚がる様に工夫して高く揚げたものである。

今はそういうものがない。正月らしいものが無いのである。

家で餅をつく事も無い。
障子紙も丈夫になって、余り汚れないので、貼り替える事も無い。
凧を揚げる場所も無い。

そんな昔を思い出しながら、コタツに入って、紅白を見ながら餅でも食べよう。
そして、除夜の鐘を聞きながら眠る事にしよう。

by mnnoblog | 2010-12-29 13:01 | 思い出

のほほんと---


by mnnoblog