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カテゴリ:思い出( 24 )

「アイビールック」

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私が20歳代の頃、「アイビールック」なるファッションが流行した。

石津謙介が当時アメリカの東海岸にある名門私立大学「アイビー・リーグ」の
間で流行っていたファッションを日本に持ち込み紹介したものである。

「VAN]というロゴネームを使用していた。

比較的上品に着こなす事ができるこのファッションは、当時の若者の心を捕らえ、東京オリンピックの年に創刊された「平凡パンチ」の表紙に載るようになると大流行となった。

この表紙を描いたのは、大橋歩というイラストレーターであった。
私も当時この雑誌を購読していたので名前は知っていたが、男性とばかり思っていた。
後に大橋歩はペンネームで女性だと知り、かっこいい男性を描けたのは女性の目から見たからだったのだと納得したものである。

「VAN]に対抗して「JUN」なるファッションも登場し、「みゆき族」と呼ばれる若者が登場した時代であった。

また、そのような服装をするには「TPO」(時・場所・場合)をわきまえて着ようという言葉も生まれた。

「アイビー・ルック」は今の時代にも何の違和感もなく着れるファッションだと思ってます。

東京オリンピックの4年後、私は東京で仕事をしておりました。
まだ独身で青春を謳歌してました。

渋谷や新宿にも出かけましたが、今でも覚えているのは、渡辺プロダクション直営の「メイツ」というライブハウスです。

そこで歌っていたのは、当時まだ無名の伊東ゆかりと白鳥英美子と平山みきでした。
若い3人が一生懸命歌っていたのを懐かしく思い出します。

by mnnoblog | 2018-08-10 08:20 | 思い出
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未だ電卓が普及していない45年ほど前、機械式計算機を利用して計算をしたことがあります。

上部のレバーをセットして、右側のハンドルを回して計算する。
計算が終わると「ピン」と音がする。
慣れれば簡単で時々使用していました。

昭和58年頃、電卓が普及するに及んで、ハンドルを回す不便な機械は使用されることはなくなりました。

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今から38年ほど前、ワープロが普及する前は和文タイプライターを使用して取引先への文書を作成していました。

和文タイプライターの開発は、漢字使用の為、文字数が多く困難を伴いました。
大正3年、杉本京太氏が日本語のタイプライターを完成します。

このタイプライターは、活字箱に沢山の活字を並べて、目的の活字を機械でつまみ上げてカーボン用紙を挟んだ用紙に打ち付けるものでした。

私も2~3回使ってみたことがありますが、活字を探すのに時間が掛かり、打ち込む時も余り力を入れ過ぎると綺麗に印刷できない事とか、一度打ち込んだ活字を間違えると修正できないので最初からやり直すという事があって難儀したことを覚えています。

当時、和文タイピストの資格を有する女子事務員は、会社にて重宝された時代でもありました。

昭和60年頃、ワープロが普及するとこの和文タイプライターは当然ながら姿を消してしまいました。

機械式計算機や和文タイプライターとも不便な機械でしたが、今では何故か懐かしい機械でもあります。

by mnnoblog | 2018-08-05 08:30 | 思い出
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翌日はイカルス社MOR工場訪問後、列車でウィーンへ。

3時間20分の列車の旅であったが、ハンガリー国境からオーストリア国境へ入ると街の景観がガラリと違った。

街の華やかさが違うのである。

これが旧共産国家と自由民主国家の違いなのかと思った。


その夜はウィーンのワイン村として名高いグリンツィングへ、私は酒に弱いのであまり飲まなかったが、酒好きの人は楽士が奏でる音楽に合わせ、グイグイと気持ち良さそうに飲んでました。


翌日は終日ウィーンのCOMPREX社訪問、懇談。

次の日は朝630分に起きて、皆とホテル周辺を散歩の後、ウィーンの市内を観光。


市民公園のシュタットパークへ、ヨハンシュトラウス像やブルックナー像、シューベルト像を見ながら公園内を散策。


18世紀に建てられたバロック様式のベルヴェデーレ宮殿の庭園と広大なシェーンブルン宮殿の庭園を散策し、「第3の男」で有名になったプラーター公園では大観覧車に乗りウィーンを一望する。


その後、ベートーベンが交響曲6番「田園」の構想を練ったとされる散歩道を歩きながらベートーベン記念館へ、2階の小さな部屋2つの記念館で、ベートーベンのデスマスクが飾られていた。

殆ど耳が聞こえなくなったベートーベンが、絶望の果て遺書を書いたとされる家でした。


夕方遅くウィーンからマドリッドへ。

翌日はマドリッドからバレンシアのフォード社バレンシア工場を訪問、懇談した。


懇談の席にはバレンシア州政府の役人も同席して、積極的な企業誘致の説明があったのには驚かされた。

懇談終了後、マドリッドへ戻る。


次の日は土曜日、マドリッドからバルセロナへ行き、市内観光となった。


まず訪れたのは建築家ガウディが造ったカサ・ミラとグエル公園。

グエル公園では回廊が印象深かく、またテラスからはバルセロナの街が見渡す事ができた。


次に訪れたのは世界的に有名な建物であるサクラダ・ファミリア。

近くで見るとその大きさに圧倒される。

未完成の建物であるが、中に入ると完成模型があり、完成の時の姿を想像できる。

現時点では2026年に完成の予定とされている。


サクラダ・ファミリアの後は、スペインが生んだ偉大な画家ピカソ美術館へ。

パブロ・ピカソの絵画を堪能した。


最後に訪れたのは、この年の7月に行われるオリンピックスタジアムを見学。

丘の上にあるスタジアムは綺麗にでき上っていた。

後に、有森裕子がマラソンで銀メダルを取ることは想像もできなかった。

その日はバルセロナからマドリッドへ戻る。


翌日の日曜日はマドリッド市内とトレド市内観光。

まず向かったのは、スペイン観光の目玉ともいえる闘牛見学であったが、私は牛が殺されていく光景を見た時、文化の違いを感じ好きになれなかった。


次に向かったのはマドリッドの郊外にある古都トレド。

タホ川に囲まれた旧市街は1986年に世界遺産に登録されている。

古代ローマから17世紀に至るユダヤ教、キリスト教、イスラム教の文化が混合した建築物、画家エル・グレコが愛した都市として有名である。

町全体が中世のままの姿に保たれているところが素晴らしかった。


マドリッドに戻りプラド美術館へ、ベラスケスやゴヤの絵画に見惚れた。

ホテルに帰ってから、今回の視察・訪問先についての座談会を実施した。

翌日はパリ経由で成田への帰途に就いた。


今回のヨーロッパの旅は、殆ど個人が自由に過ごせる時間のない旅行だったが、ベルリンの壁が崩壊した後の状況を見る事ができた事と景観の綺麗なブダペストを訪問できた事、スペインでは有名なサクラダ・ファミリアを間近で見る事ができた事が今でも良い思い出となっている。


by mnnoblog | 2018-08-02 08:40 | 思い出
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翌日ミュンヘンからプラハへ。

プラハ郊外のPOLDI社訪問、懇談後、ホテルに帰り伊藤忠商事のプラハ所長から、チェコスロバキアの現状の講演を聴く。


翌日の土曜日は専用バスに乗ってプラハ市内観光。

中世の町の色合いが濃く残っている街を眺めながら、チェコの作曲家スメタナの「モルダウ」の調べがバスの中で響く。


そのモルダウ川に架かるカレル橋を散策。

1402年に造られた全町520m、幅10mもある大きな石橋である。

橋の左右の欄干には聖人像が15体ずつ建っており、より重厚さを感じる。

橋の上では似顔絵を描く画家や音楽を奏でる人や大道芸人と共に沢山の観光客が訪れていた。


カレル橋からは近くのプラハ城へ。

プラハ城は世界で最も古く大きなお城と言われている。

城内には聖ヴィトー大聖堂があり城内を散策。


プラハ城からチェスキー・クルムロフへ

中世そのままの町並み、道幅は狭く両端に小綺麗な店が並んでいる。

観光客が多く来ていた。


プラハからブダペストへ。

その夜、ゲレールトの丘からブダペストの美しい夜景を鑑賞。


翌日の午前中はブタペストの市内観光

青いドーム屋根のブダ王宮とブダ城とお城の側にあるマーチャーシュー聖堂と漁夫の砦、ドナウ川を挟んでブダ地区とペスト地区を結ぶセーチェニくさり橋を渡り、国会議事堂へ。

この周辺の景観はドナウの真珠と呼ばれるほど美しい。


それから、建国1000年の記念塔を中央にその左右に歴史上の英雄たちの記念碑が並ぶ英雄広場を訪れる。

午後から伊藤忠商事の現地駐在員によるセミナー。


by mnnoblog | 2018-08-01 08:34 | 思い出
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EUが発足する1年前に、某自動車メーカーとその関係取引先で、欧州自動車産業の現状と日本自動車産業の位置付け及びEU統合を控えた欧州の実情を視察した。


日程は、成田⇒ベルリン⇒フランクフルト⇒ミュンヘン⇒プラハ⇒ブダペスト⇒ウィーン⇒マドリッド⇒バレンシア⇒バルセロナ⇒マドリッド⇒パリ経由成田で1992412日~428日の16日間であった。


前回のヨーロッパ視察と違って、朝早く起きて視察先を訪問し、そこでの懇談を夕方まで行う事が多く、宿に入ってもレポートをまとめる必要があったので、個人の自由時間は殆どなかった。


そのようなハードスケジュールの中から、今回のヨーロッパ旅行での思い出を記したいと思う。


成田からベルリンまでの11時間のフライトはビジネスクラスだったので、前回のヨーロッパの旅行と違い窮屈な思いはしなかった。


到着したのは旧東ベルリンの空港で、成田からの直行第一便との事であった。

ベルリンの壁は崩壊して3年経過しているにもかかわらず、旧東ベルリンの様相そのままで、空港は広いが人も少なく、ショップ店も殆どなく閑散としていてとても国際空港とは思えない状況であった。


ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツが統合し、民族の統一もなされたが、

西と東の経済格差と意識の格差により、混乱が起こり、大量の失業者をもたらした。

案内人のドイツ人は「ベルリンの壁は取り払われたが、人々の心の壁はそのままだ。完全に癒えるに100年は掛かるだろう」と言っていた。


ブランデンブルグ門周辺のベルリンの壁は取り払われ、以前訪れた時は通れなかった門を歩いて通過する。

門の側ではベルリンの壁の欠片を売っている人を見て、歴史の動きを痛感した。


前回は恐る恐る通過した、東西ベルリンの検問所だったチェックポイント・チャーリー跡を訪れた。

当然検問所はなく監視塔のみが残されていた。

近くの旧東ベルリンのビルにはコカ・コーラの看板が掲げられていたのが印象的だった。


ベルリンからフランクフルトへ。

ベルリンの朝、ホテルの朝食時に同伴の人のハンドバックが一瞬のうちに盗難にあった。

一流ホテルでの出来事に一同緊張を隠せなかった。


その日はMRE社を訪問、懇談して終わった。

翌日はミュンヘンへ、BMW本社工場訪問、懇談。


その夜は、前回にも訪れたホフブロイハウスでビールを飲む。

ビール好きな人は美味しいらしく大ジョキのビールをお代わりしていた。


翌日は630分に起き、ホテル周辺を皆で散歩した後、ミュンヘンのAUDI本社工場訪問、懇談。

私の感想では、BMW社もAUDI社も日本の自動車工場よりロボット化が進んでなく、生産効率も悪そうな感じであった。

ただ、日本より顧客の要望に沿った車作りをしていた。


by mnnoblog | 2018-07-31 08:36 | 思い出
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翌日は西ベルリンへ。

この日は日曜日だったので、東ベルリンにあるペルガモン博物館を見学。

ペルガモンはトルコの古代都市の遺跡である。

大理石で作られた大祭壇は見事であった。


当時東ベルリンへ入るには、ベルリンの壁を通過しなくてはならない。

ベルリンの壁を越えようとして殺された人の十字架が壁の近くに設置されていた。


東ベルリンへの国境検問所であるチェックポイント・チャーリーでは、検問員がバスの中に入ってきて乗員を検査し、外の監視塔からは銃を構えた監視員がいて、通過する間は目を伏せておくようにと言われ、東西冷戦の厳しさを垣間見た思いだった。


東ベルリンに入ると西ベルリンとは打って変わって人通りは少ないし、入るとすぐ目に留まったのは、戦車であった。


町の様子は裏さびれた感じで、走っている自動車もトラバントという名のお粗末な車であった。


私はベルリンのシンボルとされているブランデンブルグ門を東ベルリンと西ベルリンから眺めたが、私たちを案内したベルリン在中の日本人は”私の世代ではベルリンの壁はなくならないだろう!“と力説していた。


しかし、3年後の1989年の秋にベルリンの壁は崩壊した。

私は1992年に再びベルリンを訪問する機会があったが、西ベルリンからブランデンブルグ門を通って旧東ベルリンへ歩いた時、ベルリン在中の日本人の言葉を思い出し、歴史はいつかは変わるんだと言う思いを強くした。


西ベルリンでは、フォード社の部品工場を見学後フランクフルトへ。

その夜、行動を共にする5名で市電に乗り、フランクフルトソーセージを食べに行った。

ホテルへ戻る時、酒を飲み過ぎた所為か、市電乗り場で少しまごついたが、無事にホテルへ戻れることができた。


フランクフルトでは自動車部品会社訪問後デュッセルドルフへ。

専用バスでアウトバーンを通行、スピードを出して走っている車が多かった。


翌日の午前中、デュッセルドルフにあるフォード社のアッセンブリー工場訪問後、ライン川を渡ってブリュッセルへ。

ブリュッセルでは、GEのプラスチック社を訪問することになっていたが、私はプラスチック関係の仕事をしていたため私だけ訪問を断られ、その日は自由行動日となった。


一人で行動するのに不安はあったが、のんびりと散策することとした。

ホテルを出て、グランプラス広場へ、大きな広場を囲んで中世風の建物が目に入る。

ブリュッセル一番の繁華街とあって人通りが多かった。


そこから歩いて有名な小便小僧へ、像は思ったほど小さかった。

ゴシック建築の市庁舎を通り、プチ・サブロン広場へ。

沢山の像が建ってあり落ち着いた場所だった。


次に向かったのはヴェルサイユ宮殿風の王宮へ、王宮前の広場を散策し、グランプラス広場近くのイロ・サクレ地区へ。

いくつもの狭い路地にレストランがひしめいており、レストランの外のテーブルではムール貝を食していた。

食べてみたいと思ったが、ムール貝を食べたこともなく、一人で食する勇気がなかったのは残念であった。


地図を片手に、土産物を買ったりしながらブリュッセル市内を見学したが、道に迷う事もなくホテルに戻れた。


ブリュッセルからロンドンへ。

トラファルガー広場の近くのホテルだったので、仲間34人で夜はそぞろ歩きをした。


翌日は午前中ロンドン市内見物。

ロンドン塔、タワーブリッジ、ビッグベン、バッキンガム宮殿を見学後帰路へ、15日間のヨーロッパ旅行を終える。


今から32年前のヨーロッパ旅行であったが、特にベルリンの訪問は思い出深い旅となっている。


by mnnoblog | 2018-07-28 08:44 | 思い出
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1986524日~67日の15日間、はじめてヨーロッパを旅行した。


目的はジュネーブで開催された自動車部品の展覧会の視察とルノー社やBMW博物館、フォード社のアッセンブリー工場等の見学であるが、それ以外にもオプションツアーが含まれていた。


コースは成田⇒パリ⇒ジュネーブ⇒ミュンヘン⇒西ベルリン⇒フランクフルト⇒デュセルドルフ⇒ブリュッセル⇒ロンドン⇒成田である。


成田から北回りでロンドンへ、途中北極を通過したとのアナウンスがあったが、夢の中であった。

成田からロンドンまで約7時間半、エコノミークラスだったので窮屈な思いで座っていた。


ロンドンで乗り換えパリへ、

パリに着いてからはバスに乗車しての市内観光だったが、時差ボケでボーとしたままの観光となった。


マロニエ並木のシャンゼリゼ―大通りにある凱旋門、オベリスクのあるコンコルド広場、広大なチェイルリー公園、素晴らしかったノートルダム大聖堂のステンドグラス。


特にトロカデロ広場から見たエッフェル塔は東京タワーと違って周りに高層ビルがなく、公園の中に聳え立っていたのでより美しく見えた。


それから車中からモンマルトルの丘にあるサクレクール寺院を見て回った。

その後、ルノー社訪問。


翌日はジュネーブへ。

ジュネーブでは終日パレクスポ展示会場での自動車部品の視察が主であったが、それが終わると、オプションツアーのジュネーブ、モンブラン観光が組まれていた。


パレクスポ展覧会を視察中、偶然にも大学の同級生I氏と出会う。

顔を合わせるのは大学卒業以来で、彼も自動車部品の視察との事であった。


視察を終え、ジュネーブのホテルからバスでスイス⇒フランスの国境を越えスキーのメッカである美しいシャモニーへ。


シャモニーに到着してからはロープウエーに乗ってモンブランが見られるエギーユ・デュ・ミディ展望台に到達したが、残念なことに濃霧のため何も見えず、寒い思いをしてシャモニーへ戻る事となった。

シャモニーからはメール・ド・グラース氷河を見る事ができた。


シャモニーからジュネーブに戻り、レマン湖のルソー島で大噴水を眺め、可愛い路面電車を観ながら散策。


翌日は終日パレクスポ展覧会場でのシンポジウムとセミナーに参加。

ジュネーブは綺麗な都市であった。


ジュネーブからミュンヘンへ。

夜の8時ごろミュンヘンに着いてすぐ、有名なホフブロイハウスのビアホールへ。

多くの人がビールジョッキを片手に談笑していた。


翌日のミュンヘンはロマンチック街道を通りルートヴィヒ2世が建造したノイシュバンシュタイン城へ。

ロマンチック街道の車窓から眺める中世の町並みは美しかった。


ノイシュバンシュタイン城に着いた時は雨が降り霧が立ち込め、美しい城景を堪能することはできなかった。

また古城への道には雪が残っていた。

城の中の装飾品は見事なものであった。


ミュンヘン市内見学では、マリエン広場にある新市庁舎の時計仕掛けの人形、綺麗な庭園のニンフェンブルグ宮殿、エンジンのシリンダーを模したBMW社脇にあるBMW MUSEUMを見学した。


by mnnoblog | 2018-07-27 08:35 | 思い出
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翌日は足摺岬を目指して土佐黒潮鉄道の線路に沿って車を走らせる。

途中、中村を経て四万十川を渡ったが、残念なことに川をよく見ることなく通り過ごしてしまった。


足摺岬スカイラインを利用して岬へ、岬の前で「ジョン万ハウス」に寄る。

中浜万次郎こと、ジョン万次郎の資料館である。

ジョン万次郎に関する資料や遺品、当時の捕鯨の資料を展示してあった。


足摺岬灯台は、四国の最南端に突き出るようにそびえ立っていた。

”海の航路を一人で守っているぞ”という感じの灯台であった。

展望台の近くにはジョン万次郎の像が静かに立っていた。


足摺岬を後にして宇和島城のある宇和島へ。

宇和島城は当初、藤堂高虎が築き、その後、伊達政宗の長男伊達秀宗が入城して2代藩主の伊達宗利が改修したとされる。

今は城へ入る門と天守閣が残っているだけで、少し寂しい感がする城であった。


その日は宇和島で一泊。翌日は佐田岬を目指した。

八幡浜を通過して佐田岬への道は細く、車がすれ違う幅はギリギリであった。

こんな狭い道でも車の往来は多く、すれ違う時は最大の注意を払いながら進み展望台まで行き着いた。

帰りも大変だったが、何とか通り抜け、松山を目指す。


松山では道後温泉を見学して風呂には入らず、また松山城にも寄らず、今治へ。

松山には以前行った事があり、道後温泉にも入浴した事があったので今回はスルーした。


佐田岬往復で時間を食ってしまったので、4日目は今治で宿泊。

翌日今治城へ行く。


今治城は江戸時代に藤堂高虎によって築城され、その後今治藩・久松松平の居城となった。

明治時代、廃城令でほとんどの建物が壊された。

昭和になって天守閣や櫓を再建し、当時の面影を偲ばせている。

今回の旅で一番のお城だった。


今治を後にして、西条、新居浜、川之江を通り過ぎ丸亀城へ。

江戸時代、京極氏の居城である。

丸亀市内の亀山に天守閣があり、大手門、御殿表門が現存し、石垣が立派である。


丸亀城の近くに、丸亀藩の中津万象園を訪れた。

面積5ヘクタールもある回廊式の大名庭園である。

琵琶湖に見立てた池があり、朱塗りの橋が印象的であった。


綺麗な庭園を見た後は一路大阪へ。

瀬戸大橋を渡り家路についた。


お遍路ではないが、一度四国一周を廻ってみたいと思っていたので、疲れはしましたが、思い出深い旅でした。


by mnnoblog | 2018-07-21 08:15 | 思い出
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今から25年前の5月の連休に、大阪で単身赴任中だった私は、マイカーで四国一周を思い立ち一人で45日の旅に出た。


私の車には当時カーナビを搭載していなかった。

地図を片手に瀬戸大橋を渡り、香川、徳島、高知、愛媛、香川に戻り、また瀬戸大橋を渡って大阪へ戻るというコースでした。


瀬戸大橋が開通したのは5年前だったので、車で渡るのは初めてであった。

瀬戸大橋ができる前は、宇高連絡船で高松駅から宇野駅へ列車に乗ったまま船で渡ったものである。


眼下に見える瀬戸内海を見ながら、景色の良い場所で車を止め、車中から島々を眺めた。

通行時間は20分ぐらい、通行料は5000円だった。


香川では海上交通の神様である金刀比羅宮へ、御本宮まで785段の階段をようやく登り、展望台から讃岐平野を一望しました。

そこから栗林公園を散策した後徳島へ、鳴門を通り、人形浄るりの阿波十郎兵衛屋敷を訪問し、人形浄るりの資料館を見学。その日は徳島で一泊。


翌日は、室戸岬を目指して海岸線を走る。

太平洋の海岸は瀬戸内海の穏やかな海岸と違って荒々しく猛々しい。

その違いに驚きを感じながら車を走らせました。


室戸岬に到着したが、有名な場所の割に閑散としているのに驚きました。

そこでは灯台と中岡慎太郎像を見て、高知へ。


途中、安芸で三菱の基礎を築いた岩崎弥太郎の生家を見学。

簡素な茅葺屋根の農家の佇まいであった。

岩崎弥太郎は土佐藩の後藤象二郎らの知遇を得て政商に上り詰めて行ったとされる。


高知に入ってよさこい節で有名な「はりまや橋」を見に行ったが、朱塗りの橋は余りにも小さく、観光用として存在している姿に驚いた。


そこから高知城を見学し、桂浜にある坂本龍馬記念館へ、竜馬が駆け抜けたその生涯を見学し、銅像を見る。

その日は高知で一泊、宿の近くの食事処でカツオのたたきを食した。

(つづく)


by mnnoblog | 2018-07-20 08:15 | 思い出
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少年時代に見た映画に「ターザン」がある。
ジャングルの王者として、悪人やジャングルの秩序を乱す猛獣をやっつける。

持っている武器はナイフだけ。
マスコットのチンパンジーを連れて、ジャングルの中を木から木へ飛び移りながら移動する。

悪人をやっつける時は、「アーア・アー」と雄叫びを上げながら、ジャングルの王者として象やライオンを呼び寄せる。

「ターザン」について改めて調べてみると、「ターザン」はアメリカの小説家エドガー・ライス・バローズが作り上げた架空の人物。

小説は10巻あるが、映画は1918年~1958年の40年間で32本製作されている。
また、1999年公開のウォルト・ディズニー制作のアニメ映画もある。

少年の頃、私が見た「ターザン」はどの作品だったか覚えていないが、恐らくジョニー・ワイズミュラーが「ターザン」役をした映画だったのではないかと思う。

当時、アフリカのジャングルがどの様な密林なのか、何の情報もなかった時代、生い茂った密林の中を猿のように蔦にぶら下がって移動していく「ターザン」の姿と、動物仲間と一緒に悪人をやっつけていく様子に、少年の私は感動したものである。

by mnnoblog | 2018-07-19 08:10 | 思い出

のほほんと---


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