私のゆるゆる生活

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カテゴリ:思い出( 32 )

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私が中学生の頃、「黄銅鉱」を拾った時、金色に輝く石を見て感激した事があった。

それから石に興味を持って、河原に行っては色の綺麗な石を探してみたものの、「黄銅鉱」ほど綺麗だと思う石を見つけることはできなかった。

その後、石の事はすっかり忘れていたが、(株)デアゴスティーニ・ジャパンより「地球の鉱物コレクション」と言う、隔週刊誌で石をコレクションできる事を知り、購読して行けば石を集められると思い、2008年1月8日~2012年7月31日まで購読した。

上の画像が集めた石である。120石ある。
なかでもお気に入りの石は、「石黄」(せきおう)と呼ばれる石で、昔は黄色の顔料として利用された石である。
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隔週、火曜日本屋へ行って購入した。
約4年間、買いに行ったので本屋の店員とは顔馴染みとなり、私が顔を出すと何も言わずにコレクションが入った本を差し出してくれた。

by mnnoblog | 2018-11-13 08:10 | 思い出

好きだった音楽番組



私が若い頃、楽しんでいた音楽番組があった。

日曜日の18時30分から始まる「シャボン玉ホリデー」と土曜日の夜10時から始まる「夢であいましょう」、そして深夜のラジオ番組「ジェットストリーム」である。

「シャボン玉ホリデー」はザ・ピーナッツとハナ肇とクレージーキャッツが出演していた。

番組はザ・ピーナッツの”牛乳石鹸提供 シャボン玉ホリデー”で始まり、毎回登場するゲストを交えてのトークとハナ肇とクレージーキャッツのコント、ザ・ピーナッツとゲスト歌手との歌で展開されるバラエティー番組だった。

番組の終わりはハナ肇とザ・ピーナッツのコントと共に牛乳石鹸の提供らしく乳牛の鳴き声で終わるというものだった。

「夢であいましょう」はNHK番組らしく少し上品でホステス役の中嶋弘子が番組の始めに体を斜めにしてお辞儀をする挨拶が印象的であった。

毎月1曲、中村八大作曲、永六輔作詞の「今月の歌」が披露された。
その中には、坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」が有名である。

番組はジャズ演奏や外国の歌やコントで構成され、中嶋弘子が結婚で番組を降板した後は黒柳徹子が替わって司会を務めた。

中嶋弘子のゆっくりとした喋り方と違って、黒柳徹子の早口で軽快な喋り方が対照的であったのを覚えている。

また、深夜のFMラジオ番組「ジェットストリーム」。
「ミスターロンリー」の曲が流れると共に、司会の城達也の低音で渋い声のナレーションが良かった。

残念なことに最近は、上品で心休める音楽番組が無い。
私は夜10時頃、一日の疲れを癒し、落ち着いて眠りに入れるような音楽番組を作って欲しいと思ってます。

by mnnoblog | 2018-10-23 08:10 | 思い出

昔懐かし太鼓台

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遠くのほうから太鼓の音が聞こえてきた。
近くの神社の秋祭りである。

家の前を太鼓台が通る。
太鼓の音を聞いていると、私が高校まで住んでいた所の太鼓台を懐かしく思い出す。

高さ5m強、担ぎ棒を入れての長さは12m、重さは約3トンもある太鼓台を150人程で担ぐ。

この太鼓台は全国でも有数の大きさではないだろうか。
金糸刺繍で飾った太鼓台は豪華絢爛である。

子供の頃は友達と一緒に太鼓台に付いて回った。
お祭りの最後の日には、太鼓台同士で喧嘩をすることがある。

太鼓台が近くを通ると、ドンデンドンと鳴り響く音がお腹に響く。
高校近くのお宮にその地区の太鼓台が10数台集まり、台車をはずして、150人の担ぎ手で担ぎ上げる「かきくらべ」は豪壮である。

市内の太鼓台は全部で54台あり、それぞれの地区で「かきくらべ」が行われ多くの観光客が見物に訪れている。

来年あたり、昔懐かし太鼓台を見に行こう!

by mnnoblog | 2018-10-16 08:10 | 思い出

昔懐かしマツタケ狩り

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秋の味覚、松茸。

私が10歳の頃は、マツタケ狩りに行けばいくらでも採れた。
アカマツの下に自生していて、ひとつ見つけるとその周りに沢山生えているので、落ち葉を掻きわけて探したことを覚えている。

取ったマツタケを焼いて、醤油を掛けて食べるのが一番おいしい。
残念なことに、最近は高価すぎて食べることがない。

採れなくなった理由として、昔は松の葉や松の枝を燃料として採集していたが、それをしなくなった為、松林の根本環境が変わってしまったからと言われている。

国内のマツタケが採れなくなったため、中国や朝鮮から輸入しているが、
植物防疫法で少しでも土がついていると国内で販売できないので、流通過程で洗浄してしまうため、本来のマツタケの香りが損なわれてしまっている。

そこで、マツタケの人工栽培をしようと試みているが、まだ完成していない。
しかし新聞報道によると、多木化学が松茸の同属種で香りや味、食感も似ているバカマツタケの完全人工栽培に成功したとの記事があった。

多木化学は、自然環境ではなく、室内の培養環境でバカマツタケを育てる技術を開発したとの事である。

同社は3年後を目途に事業化を進めていきたいと話していると言う。
そうすれば、本物のマツタケは高くて手に入らないが、それに似たマツタケは安く手に入る事ができるようになる。

本物のマツタケとどれほどの差があるのか、早く試してみたいものであるが、長らく食していないので、悲しい事にその香りや味を比較できないかも知れません。

by mnnoblog | 2018-10-14 08:15 | 思い出
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連休を利用して娘と孫に会いに名古屋へ行ってきた。
何度か名古屋に来ているものの、駅前の変貌ぶりにはいつも驚かされる。

私が住んでいた頃の駅前は、近鉄ビルと大名古屋ビルが高層の建物だったが、今やJRセントラルタワーズ、JRゲートタワー、ミッドランドスクエア、新大名古屋ビル等の高層ビルが立ち並ぶ。

BIGカメラがある名古屋駅の反対側も随分変わった。
私が名古屋勤務から大阪勤務に変わったのは、30数年前である。
変わらないはずはない。

名古屋勤務は長かったが思い出は多い。
仕事に明け暮れたが、結婚し社宅住まいの中で子供が生まれ、育ち、新しく家を買い、暮らした。

取引先はトヨタ自動車、トヨタ車体、アイシン精機、日本電装、三菱自動車、本田技研等の大手企業ばかりであった。

トヨタ自動車と本田技研は直取引であったが、それ以外は商社経由の取引だった。
商社の人たちとの思い出も多い。

駅前の変貌ぶりを眺めていると、名古屋で暮らしていた頃を思い出してしまいます。

by mnnoblog | 2018-09-26 08:20 | 思い出

私の好きな曲

好きな曲はたくさんありますが、敢えて選ぶとしたら以下の曲になります。



「イマジン」
作詞・作曲:ジョン・レノン
ポール・マッカトニーが作詞・作曲した「イエスタディ」も好きですが、「イマジン」の歌詞が好きです。


「この素晴らしき世界」
作詞:ボブ・シール、作曲:ジョージ・デヴィッド・ワイズ
作詞したボブはベトナム戦争を嘆き、平和な世界を夢見て、この曲を書いたと言われる。
ルイ・アームストロングの歌声が何故か心に染み渡ります。

緑豊かな木々と美しい赤色のバラ
それらは 私と君の為に 咲いているように思える
そして 心の中で思うんだよ
なんて素晴らしい世界なんだろうって

どこまでも続く青い空と白い雲
明るく祝福された昼間 暗く神聖な夜
そして 心の中で思うんだよ
なんて素晴らしい世界なんだろうって

空に とてもきれいな虹が架かる
行き交う人々の顔にもね
友人たちが「元気か?」って握手をするんだ
でも 彼らは本当は「愛してる」って伝えてる

赤ん坊たちが元気に泣いている 彼らが成長するのを見守るんだ
彼らは 私よりもずっと多くのことを学ぶだろう
そして 心の中で思うんだよ
なんて素晴らしい世界なんだろうって
そう 心の中で思うんだよ
なんて素晴らしい世界なんだろうって


「テイク・ファイブ」
作曲:ポール・デズモンド
私は5/4拍子のこのジャズが何故か好きです。
サキソフォンのリズムとその後に続くドラムソロが良い。



「いつでも夢を」
作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正
1962年に発売された、橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲です。
この曲を口ずさむと何故か励まされました。

by mnnoblog | 2018-09-16 08:15 | 思い出

下宿生活

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昭和38年~42年の大学4年間は下宿生活だった。
私は大学の近くの6畳一間の下宿屋で過ごした。

下宿屋は1軒の大きな家で、2階の3部屋を大学生向けに下宿させていた。
各部屋にはトイレやお風呂はなく、トイレと洗面は共同、お風呂は近くの銭湯に行っていた。
食事は外食で、朝食を除いて、昼食と夜食は大学の食堂で食べていた。

家の玄関を開けるとすぐ右に2階への階段があって、上がったすぐの所が私の部屋だった。

ふすまを開けた6畳一間の部屋には、勉強机と本棚と小さな整理ダンスと小さなコタツを置いていた。
畳敷きだから、布団は部屋の隅に畳んでいた。

勿論その当時、TVはなく、ラジオを鳴らしていた。
確か、下宿代は6千円+光熱費だった。

今では大学生の下宿といえば、一部屋にトイレや洗面、お風呂も完備しているのが普通であろう。
私の時代では大学生がそんな部屋に下宿している人はいなかった。

大学の良い寮でも2~4人部屋で食堂はあるが、トイレ、洗面、お風呂は共同であった。

大学へは殆ど毎日通っていた。
工学部だったので講義もあり実験が多かったためである。

休みの日は、同じ下宿仲間と近くの麻雀屋さんで遊んでいた。
時には徹夜で麻雀した事もあった。
また、ビリヤード屋もあってそこでビリヤードを覚えた。

当時、社交ダンスが流行っていてダンス教室に通ったことがある。
ワルツからルンバまで教わった。

年に1~2回、女子大とのコンパがあって、ダンスは学科の科目よりも必須科目であった。

ダンスコンペには行ったが、好きになれる子はいなかった。
私はというと下宿生活でダサイ恰好をしていたからだったろう。

当時私は遠い親戚の子と文通していた。
遠距離恋愛という程のものではなかったが、卒業したらちゃんとしたお付き合いをしたいと思っていた。

大学を卒業してからは、4年間住んでいた下宿屋へ訪れたことはない。
下宿屋の家族とも4年間殆ど接触がなく、挨拶する程度だった。
その分、私としては気楽な下宿生活だった。
玄関を開け、階段を登れば、すぐ目の前が私の部屋だった。

by mnnoblog | 2018-08-31 08:40 | 思い出

富士五湖一周

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夏休みもそろそろ終わりである。
夏休みになると思い出すのは、大学4年の夏休みで”富士五湖巡り”した事である。

大学に入ってワンダーホーゲル部に入ったものの、体力の無さから2年で退部してしまった。

その時の無念さが残ったまま大学4年の夏を迎えた時、一人で夏休みを利用して”富士五湖巡り”をしようと計画した。

ワンダーホーゲルの装備は持っていたので、リュックを背負い下宿を出発した。

新幹線で新富士駅に降り、見延線で富士宮駅からバスに乗って本栖湖へ行ったと覚えている。

”富士五湖巡り”と言っても五つの湖の周りをぐるりと回るほどの体力は持っていないので、徒歩で五つの湖を見て回ったという程度である。

本栖湖から精進湖へ、精進湖から西湖へ一人で歩いていると、トラックの運転手が声を掛けてくれ「どこへ行く?」「西湖まで」というと「乗って行け」と言われ西湖まで乗っけてもらった。

西湖から河口湖まではテクテク歩き、その夜は”河口湖ユースホステル”に泊った。
ユースホステルでは、宿泊者たちと談笑し歌を歌ったのを覚えている。

翌日、ユースホステルを出て山中湖へ向かう。
山中湖までは少し距離があった。
卒業後の就職先もまだ決まっていなかったが、何も考えずにテクテクと歩いた。

”富士五湖巡り”をしていて、当然富士山を眺めたはずであるが、何故か記憶がない。
富士山より湖の景色の方に関心があったからかも知れない

また、次の宿泊先の山中湖ユースホステルまでに途中で昼食を取ったはずであるが、それも余り覚えていない。

山中湖ユースホステルは湖畔の白樺林の中にあって、周りの景色が綺麗な所だった。
その夜も、宿泊者たちと談笑し歌を歌った。

50数年前の事で詳細な事柄は思い出せませんが一つの思い出としてブログに記しておこうと思いました。

by mnnoblog | 2018-08-30 08:10 | 思い出

「アイビールック」

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私が20歳代の頃、「アイビールック」なるファッションが流行した。

石津謙介が当時アメリカの東海岸にある名門私立大学「アイビー・リーグ」の
間で流行っていたファッションを日本に持ち込み紹介したものである。

「VAN]というロゴネームを使用していた。

比較的上品に着こなす事ができるこのファッションは、当時の若者の心を捕らえ、東京オリンピックの年に創刊された「平凡パンチ」の表紙に載るようになると大流行となった。

この表紙を描いたのは、大橋歩というイラストレーターであった。
私も当時この雑誌を購読していたので名前は知っていたが、男性とばかり思っていた。
後に大橋歩はペンネームで女性だと知り、かっこいい男性を描けたのは女性の目から見たからだったのだと納得したものである。

「VAN]に対抗して「JUN」なるファッションも登場し、「みゆき族」と呼ばれる若者が登場した時代であった。

また、そのような服装をするには「TPO」(時・場所・場合)をわきまえて着ようという言葉も生まれた。

「アイビー・ルック」は今の時代にも何の違和感もなく着れるファッションだと思ってます。

東京オリンピックの4年後、私は東京で仕事をしておりました。
まだ独身で青春を謳歌してました。

渋谷や新宿にも出かけましたが、今でも覚えているのは、渡辺プロダクション直営の「メイツ」というライブハウスです。

そこで歌っていたのは、当時まだ無名の伊東ゆかりと白鳥英美子と平山みきでした。
若い3人が一生懸命歌っていたのを懐かしく思い出します。

by mnnoblog | 2018-08-10 08:20 | 思い出
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未だ電卓が普及していない45年ほど前、機械式計算機を利用して計算をしたことがあります。

上部のレバーをセットして、右側のハンドルを回して計算する。
計算が終わると「ピン」と音がする。
慣れれば簡単で時々使用していました。

昭和58年頃、電卓が普及するに及んで、ハンドルを回す不便な機械は使用されることはなくなりました。

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今から38年ほど前、ワープロが普及する前は和文タイプライターを使用して取引先への文書を作成していました。

和文タイプライターの開発は、漢字使用の為、文字数が多く困難を伴いました。
大正3年、杉本京太氏が日本語のタイプライターを完成します。

このタイプライターは、活字箱に沢山の活字を並べて、目的の活字を機械でつまみ上げてカーボン用紙を挟んだ用紙に打ち付けるものでした。

私も2~3回使ってみたことがありますが、活字を探すのに時間が掛かり、打ち込む時も余り力を入れ過ぎると綺麗に印刷できない事とか、一度打ち込んだ活字を間違えると修正できないので最初からやり直すという事があって難儀したことを覚えています。

当時、和文タイピストの資格を有する女子事務員は、会社にて重宝された時代でもありました。

昭和60年頃、ワープロが普及するとこの和文タイプライターは当然ながら姿を消してしまいました。

機械式計算機や和文タイプライターとも不便な機械でしたが、今では何故か懐かしい機械でもあります。

by mnnoblog | 2018-08-05 08:30 | 思い出