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EUが発足する1年前に、某自動車メーカーとその関係取引先で、欧州自動車産業の現状と日本自動車産業の位置付け及びEU統合を控えた欧州の実情を視察した。


日程は、成田⇒ベルリン⇒フランクフルト⇒ミュンヘン⇒プラハ⇒ブダペスト⇒ウィーン⇒マドリッド⇒バレンシア⇒バルセロナ⇒マドリッド⇒パリ経由成田で1992412日~428日の16日間であった。


前回のヨーロッパ視察と違って、朝早く起きて視察先を訪問し、そこでの懇談を夕方まで行う事が多く、宿に入ってもレポートをまとめる必要があったので、個人の自由時間は殆どなかった。


そのようなハードスケジュールの中から、今回のヨーロッパ旅行での思い出を記したいと思う。


成田からベルリンまでの11時間のフライトはビジネスクラスだったので、前回のヨーロッパの旅行と違い窮屈な思いはしなかった。


到着したのは旧東ベルリンの空港で、成田からの直行第一便との事であった。

ベルリンの壁は崩壊して3年経過しているにもかかわらず、旧東ベルリンの様相そのままで、空港は広いが人も少なく、ショップ店も殆どなく閑散としていてとても国際空港とは思えない状況であった。


ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツが統合し、民族の統一もなされたが、

西と東の経済格差と意識の格差により、混乱が起こり、大量の失業者をもたらした。

案内人のドイツ人は「ベルリンの壁は取り払われたが、人々の心の壁はそのままだ。完全に癒えるに100年は掛かるだろう」と言っていた。


ブランデンブルグ門周辺のベルリンの壁は取り払われ、以前訪れた時は通れなかった門を歩いて通過する。

門の側ではベルリンの壁の欠片を売っている人を見て、歴史の動きを痛感した。


前回は恐る恐る通過した、東西ベルリンの検問所だったチェックポイント・チャーリー跡を訪れた。

当然検問所はなく監視塔のみが残されていた。

近くの旧東ベルリンのビルにはコカ・コーラの看板が掲げられていたのが印象的だった。


ベルリンからフランクフルトへ。

ベルリンの朝、ホテルの朝食時に同伴の人のハンドバックが一瞬のうちに盗難にあった。

一流ホテルでの出来事に一同緊張を隠せなかった。


その日はMRE社を訪問、懇談して終わった。

翌日はミュンヘンへ、BMW本社工場訪問、懇談。


その夜は、前回にも訪れたホフブロイハウスでビールを飲む。

ビール好きな人は美味しいらしく大ジョキのビールをお代わりしていた。


翌日は630分に起き、ホテル周辺を皆で散歩した後、ミュンヘンのAUDI本社工場訪問、懇談。

私の感想では、BMW社もAUDI社も日本の自動車工場よりロボット化が進んでなく、生産効率も悪そうな感じであった。

ただ、日本より顧客の要望に沿った車作りをしていた。


by mnnoblog | 2018-07-31 08:36 | 思い出
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今年の春、お花見も兼ねて池田城跡を見に行きました。

大阪府池田市にある池田城は、室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市、吹田市周辺)を治めていた領主池田氏の居城だった所です。

その池田氏に仕えた家臣に荒木村重という織田信長に反旗を翻し、信長からの攻撃から逃げ延びて、茶人となった稀有な戦国武将がいた。

荒木村重は池田一族の娘を娶り一族の一員となるが、三好三人衆の調略に乗り領主を追放して池田家を掌握する。
その後、池田氏が仕えていた織田信長に気に入れられ、織田信長の家臣となる。

摂津国人だった伊丹氏が支配する伊丹城を陥落させ、伊丹城の城主となり、摂津一国を任され、伊丹城を有岡城と改め侍地区と町人地区を土塁で囲んだ惣構えの城に改築。

その後、羽柴秀吉と共に三木城の合戦の時、何故か突然戦線を離脱し織田信長の命令に背き有岡城へ帰ってしまう。

謀反の理由は諸説あるが、当時の摂津国内は信長が進出するまでは国衆や寺内町・郷村などが独自に支配してた地域だった。
その様な気風から、信長の支配になる事を皆が快く思っていなかった為、村重は彼らの指示を受けた方が摂津地域を支配できると考えたとも。

また、村重は足利義昭や石山本願寺とも親しく、信長の石山本願寺への攻撃で困窮を極めていた状況を見て、兵糧を分け与えていたのが信長に知られた時の処罰を恐れた為ともいわれている。

荒木村重の謀反に驚いた信長は、明智光秀や旧知の仲である黒田官兵衛に説得させようとしたが、黒田官兵衛は逆に捉えられて牢獄に閉じ込められてしまう。

怒った信長は池田城に本陣を構え、有岡城へ攻撃を行う中、荒木村重は毛利軍と石山本願寺からの援軍を期待したが、援軍は現れず一人城から抜け出し、嫡男のいる尼崎城へ逃げるが、信長が有岡城を攻撃し荒木一族を皆殺しにされると毛利氏の下へ亡命し、尾道で隠遁生活を送る。

その後、信長が本能寺の変で亡くなると堺に戻り、千利休の弟子となるが、豊臣秀吉の時代になると秀吉からの処罰も恐れ出家し堺にて死去する。

戦国の時代とは言え、信長に謀反を起こした結果、一族は全て殺され自分一人生き残った村重という人物、彼がそこまで筋を通した理由は何だったのだろうか。
明智光秀が信長に謀反を起こした理由と同じなのではないだろうかと思ってしまいます。

by mnnoblog | 2018-07-30 08:40 | 気になる事柄
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大阪に四天王寺というお寺がある。
このお寺は聖徳太子が建立したとされており、593年から建立され始めたと「日本書紀」には伝えられている。

四天王寺を建立するために、百済から工匠が招かれ、そのうちの一人が金剛組初代の金剛重光と言われ、金剛組の創業は578年とされています。

その後、金剛組は江戸時代に至るまで四天王寺専属の宮大工として存続してきましたが、明治に入って神仏分離令により、金剛組は四天王寺だけでは禄を得る事ができず、他の寺社にも手を広げて行くます。

しかし、良いものを作らんがため価格を度外視して仕事に没頭してしまう職人気質が仇となり、金剛組の経営は極度に困窮する事となる。

昭和に入って全国の社寺は戦争による火災や台風被害に合ったため防火・防災に対応できる建築が望まれ、戦後の復興に当たり鉄筋コンクリート工法が脚光を浴びるようになる。

金剛組も時代の要請にこたえようと、鉄筋コンクリート工法でも日本建築本来の優美さや、木の温かみを損なわない工法を開発して行きますが、バブル期にマンションなどの一般建築に手を広げたことが致命傷となり負債が増大してしまいます。

「金剛組を潰すな」と大阪の高松建設が再建に乗り出し、同社の子会社として新生金剛組がスタートし現在に至っています。

創業1400年余りも長く続いた企業は世界にもなく、金剛組は世界最古の企業と言われています。

新生金剛組のホームページには、”1400年余りの長い歴史の中で常に心に刻んできたのは、先駆者の自覚に基づいた伝統の技を後世に伝える使命感です”とあります。

この理念さえあれば、金剛組はさらなる長きに渡り存続してゆく事でしょう。

大阪商人の言葉にある「儲かりまっか?」、「ボチボチでんな!」と大儲けせずとも確実に一歩ずつ時代の変化に合わせ経営を進めていくのが長続きの秘訣に思えます。

by mnnoblog | 2018-07-29 08:27 | 独り言
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翌日は西ベルリンへ。

この日は日曜日だったので、東ベルリンにあるペルガモン博物館を見学。

ペルガモンはトルコの古代都市の遺跡である。

大理石で作られた大祭壇は見事であった。


当時東ベルリンへ入るには、ベルリンの壁を通過しなくてはならない。

ベルリンの壁を越えようとして殺された人の十字架が壁の近くに設置されていた。


東ベルリンへの国境検問所であるチェックポイント・チャーリーでは、検問員がバスの中に入ってきて乗員を検査し、外の監視塔からは銃を構えた監視員がいて、通過する間は目を伏せておくようにと言われ、東西冷戦の厳しさを垣間見た思いだった。


東ベルリンに入ると西ベルリンとは打って変わって人通りは少ないし、入るとすぐ目に留まったのは、戦車であった。


町の様子は裏さびれた感じで、走っている自動車もトラバントという名のお粗末な車であった。


私はベルリンのシンボルとされているブランデンブルグ門を東ベルリンと西ベルリンから眺めたが、私たちを案内したベルリン在中の日本人は”私の世代ではベルリンの壁はなくならないだろう!“と力説していた。


しかし、3年後の1989年の秋にベルリンの壁は崩壊した。

私は1992年に再びベルリンを訪問する機会があったが、西ベルリンからブランデンブルグ門を通って旧東ベルリンへ歩いた時、ベルリン在中の日本人の言葉を思い出し、歴史はいつかは変わるんだと言う思いを強くした。


西ベルリンでは、フォード社の部品工場を見学後フランクフルトへ。

その夜、行動を共にする5名で市電に乗り、フランクフルトソーセージを食べに行った。

ホテルへ戻る時、酒を飲み過ぎた所為か、市電乗り場で少しまごついたが、無事にホテルへ戻れることができた。


フランクフルトでは自動車部品会社訪問後デュッセルドルフへ。

専用バスでアウトバーンを通行、スピードを出して走っている車が多かった。


翌日の午前中、デュッセルドルフにあるフォード社のアッセンブリー工場訪問後、ライン川を渡ってブリュッセルへ。

ブリュッセルでは、GEのプラスチック社を訪問することになっていたが、私はプラスチック関係の仕事をしていたため私だけ訪問を断られ、その日は自由行動日となった。


一人で行動するのに不安はあったが、のんびりと散策することとした。

ホテルを出て、グランプラス広場へ、大きな広場を囲んで中世風の建物が目に入る。

ブリュッセル一番の繁華街とあって人通りが多かった。


そこから歩いて有名な小便小僧へ、像は思ったほど小さかった。

ゴシック建築の市庁舎を通り、プチ・サブロン広場へ。

沢山の像が建ってあり落ち着いた場所だった。


次に向かったのはヴェルサイユ宮殿風の王宮へ、王宮前の広場を散策し、グランプラス広場近くのイロ・サクレ地区へ。

いくつもの狭い路地にレストランがひしめいており、レストランの外のテーブルではムール貝を食していた。

食べてみたいと思ったが、ムール貝を食べたこともなく、一人で食する勇気がなかったのは残念であった。


地図を片手に、土産物を買ったりしながらブリュッセル市内を見学したが、道に迷う事もなくホテルに戻れた。


ブリュッセルからロンドンへ。

トラファルガー広場の近くのホテルだったので、仲間34人で夜はそぞろ歩きをした。


翌日は午前中ロンドン市内見物。

ロンドン塔、タワーブリッジ、ビッグベン、バッキンガム宮殿を見学後帰路へ、15日間のヨーロッパ旅行を終える。


今から32年前のヨーロッパ旅行であったが、特にベルリンの訪問は思い出深い旅となっている。


by mnnoblog | 2018-07-28 08:44 | 思い出
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1986524日~67日の15日間、はじめてヨーロッパを旅行した。


目的はジュネーブで開催された自動車部品の展覧会の視察とルノー社やBMW博物館、フォード社のアッセンブリー工場等の見学であるが、それ以外にもオプションツアーが含まれていた。


コースは成田⇒パリ⇒ジュネーブ⇒ミュンヘン⇒西ベルリン⇒フランクフルト⇒デュセルドルフ⇒ブリュッセル⇒ロンドン⇒成田である。


成田から北回りでロンドンへ、途中北極を通過したとのアナウンスがあったが、夢の中であった。

成田からロンドンまで約7時間半、エコノミークラスだったので窮屈な思いで座っていた。


ロンドンで乗り換えパリへ、

パリに着いてからはバスに乗車しての市内観光だったが、時差ボケでボーとしたままの観光となった。


マロニエ並木のシャンゼリゼ―大通りにある凱旋門、オベリスクのあるコンコルド広場、広大なチェイルリー公園、素晴らしかったノートルダム大聖堂のステンドグラス。


特にトロカデロ広場から見たエッフェル塔は東京タワーと違って周りに高層ビルがなく、公園の中に聳え立っていたのでより美しく見えた。


それから車中からモンマルトルの丘にあるサクレクール寺院を見て回った。

その後、ルノー社訪問。


翌日はジュネーブへ。

ジュネーブでは終日パレクスポ展示会場での自動車部品の視察が主であったが、それが終わると、オプションツアーのジュネーブ、モンブラン観光が組まれていた。


パレクスポ展覧会を視察中、偶然にも大学の同級生I氏と出会う。

顔を合わせるのは大学卒業以来で、彼も自動車部品の視察との事であった。


視察を終え、ジュネーブのホテルからバスでスイス⇒フランスの国境を越えスキーのメッカである美しいシャモニーへ。


シャモニーに到着してからはロープウエーに乗ってモンブランが見られるエギーユ・デュ・ミディ展望台に到達したが、残念なことに濃霧のため何も見えず、寒い思いをしてシャモニーへ戻る事となった。

シャモニーからはメール・ド・グラース氷河を見る事ができた。


シャモニーからジュネーブに戻り、レマン湖のルソー島で大噴水を眺め、可愛い路面電車を観ながら散策。


翌日は終日パレクスポ展覧会場でのシンポジウムとセミナーに参加。

ジュネーブは綺麗な都市であった。


ジュネーブからミュンヘンへ。

夜の8時ごろミュンヘンに着いてすぐ、有名なホフブロイハウスのビアホールへ。

多くの人がビールジョッキを片手に談笑していた。


翌日のミュンヘンはロマンチック街道を通りルートヴィヒ2世が建造したノイシュバンシュタイン城へ。

ロマンチック街道の車窓から眺める中世の町並みは美しかった。


ノイシュバンシュタイン城に着いた時は雨が降り霧が立ち込め、美しい城景を堪能することはできなかった。

また古城への道には雪が残っていた。

城の中の装飾品は見事なものであった。


ミュンヘン市内見学では、マリエン広場にある新市庁舎の時計仕掛けの人形、綺麗な庭園のニンフェンブルグ宮殿、エンジンのシリンダーを模したBMW社脇にあるBMW MUSEUMを見学した。


by mnnoblog | 2018-07-27 08:35 | 思い出

長く続く異常な暑さ

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水害に続いて今度は日本列島がうだる様な暑い日が連日続く。

TVを観るとどこの局も熱中症対策をテーマに話している。


この異常気候は日本だけでなく世界中に発生しているとの報道もある。


温暖化対策が世界中で議論されている中で、アメリカの大統領はパリ協定から離脱宣言を行っている。


地球の気温は20世紀に入って急激に上がっている。

これは化石燃料を人類が使用し始めたからなのであるが、その事実は世界各国が理解しているにも拘らず、自国の利害を主張して大幅な対策が取られていない。


人類の産業が発展した結果のCO2増加は疑いようもないのにである。


世界各国に異常気候が起こり続けない限り、人類は重い腰を上げようとしないのだろう。

そこから本格的な対応が取られても、今日の異常気候が収まるまでは長い期間が必要になるだろう。


効果を表すまで人類には辛抱強い忍耐期間がどれだけ続くのか。

私の代ではなく、子供の代、もしくは孫の代で収まるのだろうか?


暑さで外に一歩も出られない私はふと考えてしまうのである。


by mnnoblog | 2018-07-26 08:24 | 独り言
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世の東西を問わず、ハゲの悩みに変わりはない。
私の頭も上図ほどではないが、後頭部はバーコードとなっている。
”何でこのような状態にーーー”と思う事もある。

ハゲを防止するための育毛剤が多数紹介されており種類も多い。
しかし、私は育毛剤を使用しようとは思わない。

旧約聖書に怪力の持ち主サムソンの唯一の弱点は髪を失う事だった。
それを知られてしまってデリラに髪を剃られ力を失い悲劇的な最期を迎える事になる。
サムソンにとって一番大切なのは髪だったという話である。

昔、武士は髷を結えなくなると隠居するという習慣があったという。
人によっては30歳台でハゲてしまっている人もいたはずである。
そんな人も隠居してしまったのだろうか?

ハゲの要因はホルモンと遺伝子によると言われる。

男性ホルモンの「テストステロン」が頭髪の毛穴の内部で変化して、毛穴が小さくなり、毛髪が細くなって最終的に毛穴から毛が生えなくなってしまうらしい。

男性の方が「テストステロン」の値が高いため、女性より6倍ハゲやすいとされている。

もう一つの要因である遺伝子は「X染色体」にあり、男性は「X染色体」を1本しかなく、男性の方が親からの遺伝子をそのまま直接受け継ぐのに対し、女性は2本持っているので、両親のどちらからしか遺伝子を受け継がないのでハゲにくいとの事である。

ハゲる事は恥ずかしい事ではないと「ツル多はげます会」、「光頭会」、「秀頭会」といった団体も国内にはあり、「全国ひかりサミット」という団体の交流の場もある。

私もどの様にハゲようとも気にせず暮らしていくつもりである。

by mnnoblog | 2018-07-25 08:39 | 独り言
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報告義務ナシ、返済不要、将来の進路自由。

ただし基金に拠出したのが誰かは絶対に教えない。


かつて,こんなユニークな奨学金制度があった。

運営する「財団法人作行会」は約20年にわたり理工系の若手研究者1735人を支援した。


「作行会」は1963年に解散するが、解散記念謝恩会の席で初めて、足長おじさんはホンダの創業者、本田宗一郎氏と、その名参謀として知られた藤沢武夫氏だったことが明かされた。


本田と藤沢は、ホンダの株や配当金を基にして、1961年に苦学生への基金「財団法人作行会」を創設していた。


「作行会」から助成金を受け取った人の中に、宇宙飛行士の毛利衛氏がいる。


とことん匿名にこだわる。

実名を出してメッセージを込める。

どんな形にしろ、他者を思いやっての行いを知れば心が温まるものです。


by mnnoblog | 2018-07-24 08:18 | 気になる事柄
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織田信長には有名な家臣が多くいる。
羽柴秀吉を筆頭に柴田勝家、前田利家、明智光秀、滝川一益等であるが、中でも異色の家臣は「弥助」と呼ばれた黒人である。

身長1.8mもあり頑健な体を持った「弥助」は、イエズス会の宣教師の召使として、宣教師が織田信長に謁見した時に連れて来られた。

初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかと肌を洗わせたが、黒い肌はそのままで白くならなかった。

興味を持った信長は宣教師からこの黒人を譲ってもらい、「弥助」と名乗らせ警護人として身近に置くようになった。

信長が本能寺に赴いた時にも「弥助」は一緒に行動をしていた。
明智光秀が謀反を起こた本能寺の変の時は、本能寺を抜け出し妙覚寺にいた織田信忠に急を知らせている。

信長が本能寺で自害すると、信忠と共に戦うが捕らえられる。
光秀は「弥助」を助ける気持ちから”黒人は人間にあらず”と言い、「弥助」は処刑されることなく南蛮寺に送られたという。

南蛮寺に送られた「弥助」の消息はその後不明である。
戦国時代にはいろいろなことが起こっているが、”事実は小説より奇なり”とはこの事であろうか。

by mnnoblog | 2018-07-23 08:30 | 気になる事柄

中国と韓国の原発

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2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって、東京電力福島第一原発は原子力事故を起こした。

あの日私はTVからの報道を注視していた。
”日本は戦争によりアメリカから広島・長崎に原爆を落とされ被爆国になったのに、今度は地震の災害でまた日本は放射能に晒されてしまうのかーーー”と思いました。

福島第一原発の事故が起こってから、国内の原発は全て稼働停止され、現在は7基が安全性を審査され再稼働している。

一方、中国では大気汚染が深刻な状況にあり、環境対策の点から原発は現在38基が稼働中で、新たに19基を建設しており、2030年までに100基を超える原発の稼働を計画している。

その原発も中国沿岸部に集中しており、もし事故が発生したら、中国からのPM2.5の被害が日本国内に既に及んでいる様に、放射性物質の飛来による日本への影響は計り知れない。

中国沿岸部で地震が起こり、津波が発生して、福島原発の事故と同じ事故が起こったらと思うとーーーー

お隣の韓国にも原発は4カ所にあり、それぞれ4基以上保有している。
日本に一番近い古里原発は、対馬まで約70Kmである。
ここで事故が起こったらと思うとーーーー

by mnnoblog | 2018-07-22 08:30 | 気になる事柄

のほほんと---


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