私のゆるゆる生活

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下宿生活

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昭和38年~42年の大学4年間は下宿生活だった。
私は大学の近くの6畳一間の下宿屋で過ごした。

下宿屋は1軒の大きな家で、2階の3部屋を大学生向けに下宿させていた。
各部屋にはトイレやお風呂はなく、トイレと洗面は共同、お風呂は近くの銭湯に行っていた。
食事は外食で、朝食を除いて、昼食と夜食は大学の食堂で食べていた。

家の玄関を開けるとすぐ右に2階への階段があって、上がったすぐの所が私の部屋だった。

ふすまを開けた6畳一間の部屋には、勉強机と本棚と小さな整理ダンスと小さなコタツを置いていた。
畳敷きだから、布団は部屋の隅に畳んでいた。

勿論その当時、TVはなく、ラジオを鳴らしていた。
確か、下宿代は6千円+光熱費だった。

今では大学生の下宿といえば、一部屋にトイレや洗面、お風呂も完備しているのが普通であろう。
私の時代では大学生がそんな部屋に下宿している人はいなかった。

大学の良い寮でも2~4人部屋で食堂はあるが、トイレ、洗面、お風呂は共同であった。

大学へは殆ど毎日通っていた。
工学部だったので講義もあり実験が多かったためである。

休みの日は、同じ下宿仲間と近くの麻雀屋さんで遊んでいた。
時には徹夜で麻雀した事もあった。
また、ビリヤード屋もあってそこでビリヤードを覚えた。

当時、社交ダンスが流行っていてダンス教室に通ったことがある。
ワルツからルンバまで教わった。

年に1~2回、女子大とのコンパがあって、ダンスは学科の科目よりも必須科目であった。

ダンスコンペには行ったが、好きになれる子はいなかった。
私はというと下宿生活でダサイ恰好をしていたからだったろう。

当時私は遠い親戚の子と文通していた。
遠距離恋愛という程のものではなかったが、卒業したらちゃんとしたお付き合いをしたいと思っていた。

大学を卒業してからは、4年間住んでいた下宿屋へ訪れたことはない。
下宿屋の家族とも4年間殆ど接触がなく、挨拶する程度だった。
その分、私としては気楽な下宿生活だった。
玄関を開け、階段を登れば、すぐ目の前が私の部屋だった。

by mnnoblog | 2018-08-31 08:40 | 思い出

富士五湖一周

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夏休みもそろそろ終わりである。
夏休みになると思い出すのは、大学4年の夏休みで”富士五湖巡り”した事である。

大学に入ってワンダーホーゲル部に入ったものの、体力の無さから2年で退部してしまった。

その時の無念さが残ったまま大学4年の夏を迎えた時、一人で夏休みを利用して”富士五湖巡り”をしようと計画した。

ワンダーホーゲルの装備は持っていたので、リュックを背負い下宿を出発した。

新幹線で新富士駅に降り、見延線で富士宮駅からバスに乗って本栖湖へ行ったと覚えている。

”富士五湖巡り”と言っても五つの湖の周りをぐるりと回るほどの体力は持っていないので、徒歩で五つの湖を見て回ったという程度である。

本栖湖から精進湖へ、精進湖から西湖へ一人で歩いていると、トラックの運転手が声を掛けてくれ「どこへ行く?」「西湖まで」というと「乗って行け」と言われ西湖まで乗っけてもらった。

西湖から河口湖まではテクテク歩き、その夜は”河口湖ユースホステル”に泊った。
ユースホステルでは、宿泊者たちと談笑し歌を歌ったのを覚えている。

翌日、ユースホステルを出て山中湖へ向かう。
山中湖までは少し距離があった。
卒業後の就職先もまだ決まっていなかったが、何も考えずにテクテクと歩いた。

”富士五湖巡り”をしていて、当然富士山を眺めたはずであるが、何故か記憶がない。
富士山より湖の景色の方に関心があったからかも知れない

また、次の宿泊先の山中湖ユースホステルまでに途中で昼食を取ったはずであるが、それも余り覚えていない。

山中湖ユースホステルは湖畔の白樺林の中にあって、周りの景色が綺麗な所だった。
その夜も、宿泊者たちと談笑し歌を歌った。

50数年前の事で詳細な事柄は思い出せませんが一つの思い出としてブログに記しておこうと思いました。

by mnnoblog | 2018-08-30 08:10 | 思い出

ツバメの能力

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ツバメをよく見かける。
今頃は雛が孵った頃なのだろうか。

ツバメは渡り鳥である。
台湾やフィリピンから春先に日本を目指してやってくる。
一日に飛ぶ距離は300Kmと言われている。

餌をとる時のスピードは40~50Kmらしい。
そのスピードで昆虫などを捕らえる。
動体視力が凄いのであろう。

ツバメは渡り鳥であるが、雁のようにV字型で飛んでいるのは見たことがない。
群れで飛ぶのでなく、単体で渡って行くらしい。

太陽を目印に渡っていくと言われているが、単独で飛んでいて不安はないのであろうか?

鳥を見ていると、人間では到底及ばない能力の持ち主である。

by mnnoblog | 2018-08-29 08:35 | 気になる事柄

歯は大切

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年寄りになって気付く事の一つに、”歯の大切さ”を感じる。

私は小学生の頃に右の奥歯が虫歯になって、痛み出し、歯医者に行った。
治療を受けた歯医者は、私の歯を見るなり「これは抜かないといけません」と言った。

「抜くのか」と思ったが、反対する訳にもいかず、先生の言うがまま痛かったがその歯を抜いた。

抜いた歯は左右の歯でブリッジにされた。

それから歯磨きを毎日欠かさず行うようになったが、大人になって左の奥歯が虫歯になってしまった。

今度も治療の甲斐なく抜くことになって、同じ様にブリッジにされた。

それから数十年後、ブリッジされた歯が虫歯になり治療されたが、再度ブリッジにすると言われたので、それを断り抜けたままにしている。

食事の時、多少食べ物は咀嚼されていないが、時間を掛けて噛んでいるので、消化不良にはなっていない。

最近の歯の治療は痛くないように、また歯を抜かない方向へ治療が進んでいるらしい。

私は言いたい”歯は絶対に抜かないように”と。

今では「インプラント」治療で新しく歯を作る事ができるようになったが、私は自分の年齢を考えると、顎の骨に自信がない。

土台となる骨がしっかりしていないと、数年後はダメになってしまう。
私は頑固だから、歯医者から”顎の骨は大丈夫です”と言われても信用できない。

今は毎日せっせと残った歯を大切に磨いてます。

by mnnoblog | 2018-08-28 08:36 | 独り言
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1861年、イギリス海軍の測量船団が4隻、神奈川に来航し、日本沿岸の測量を幕府に願い、幕府はしぶしぶ許可しました。

幕府としては万一のことを考え、幕府の役人は「伊能地図」を持って各船団に乗船しました。

測量船団隊長は、その地図の精密さに驚愕したという事です。

隊長は「伊能地図」の写しを貰い、測量することを止め、測深だけ実施して引き上げていったという事です。

伊能忠敬は家業の酒造りを息子に譲り隠居した後、51歳の時に下総国佐原村から江戸に出て、20歳年下の幕府の天文方高橋至時の弟子となり、天体観測や測量を学ぶ。

高橋至時は幕府からの要請で「寛政暦」を作っていたが、より正確な暦を作るためには、子午線1度の距離を知ることが必要との事で、蝦夷から江戸までの測量を幕府に願い出ていた。

当時、蝦夷はロシアから侵略される情勢下にあったため、幕府はその願いを聞き入れ、1800年蝦夷測量の命令が下された。
高橋至時はそれを弟子の伊能忠敬に依頼した。

1800年、忠敬55才、第1次測量として内弟子3人、下男2人、測量機具を運ぶ人足3名、馬2頭を伴って江戸から蝦夷地へ出発する。
第一次測量にかかった日数は180日、一日約40キロ移動したと言う。

蝦夷測量で作成した地図が、幕府で高い評価を得て、第2次測量の計画が立てられ、その後も第3次測量~第10次測量まで行われる。

忠敬は第9次測量のみ71才と高齢のため参加しなかったが、第10次の江戸測量は参加している。
第10次測量で日本全土の測量を終えたことになる。

1818年、伊能忠敬は74歳で死去するが、その3年後に「大日本沿海興地全図」は完成する。

忠敬は地図を作成する時、地球を球体と考え、緯度1度の距離を28.2里とした。
緯度1度の距離は現在の距離と較べ約1000分の1の誤差であった。

忠敬は身長160センチ前後、体重55キロ程度と推定されている。
持病の慢性気管支炎と闘いながら、歩幅約69センチで約3万5千キロを歩き、作成した地図の精度は外国人も舌を巻いたと言われる。

上野の源空寺には、師匠だった高橋至時の墓の隣に、伊能忠敬の墓がある。

by mnnoblog | 2018-08-27 08:12 | 気になる事柄

「空飛ぶ車」への実現

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8月24日、経済産業省は「空の移動革命に向けた官民協議会」を設立し、国土交通省と合同で、日本における”空飛ぶクルマ”の実現に向けて第一回会合を8月29日に開催すると発表した。

世界では、ベンチャー企業から大企業に至るまで「空飛ぶ車」の実現に向けて取り組んでおり、日本としても都市の渋滞、離島や山間部での新しい移動手段、災害時の緊急搬送や物資の運搬手段を考慮すれば、「空飛ぶ車」の実現に向けて取り組んで行きたいとの趣旨である。

いやー!面白くなってきた。
政府もついに「空飛ぶ車」の実現のために動き出したか!

確かに世界各国で「空飛ぶ車」の開発が進められている。
・飛行機タイプ
・ヘリコプタータイプ
・ドローンタイプ
に分けられると思うが、狭い日本の国土事情から考えれば、ドローンタイプが適していると思われる。

人口密度の高い日本で、一番要求されるのは安全性であろう。
多少風の強い日でも安全に飛行できる機体でなければならない。

突風で機体がぐらついても、すぐに元の姿勢に戻せるよう、現在の技術なら可能なのではないだろうか。

夢の「空飛ぶ車」の実現に期待したい。

by mnnoblog | 2018-08-26 08:45 | 気になる事柄
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信長を打つと決心した光秀は亀山城を出て東に進み、暫くして重臣たちと軍議を開き、自らの決心を伝えた。
それ以外の者たちには「信長様から徳川家康を打てとの御沙汰があった。これから京都へ行く」と伝え、京都を目指した。

1582年6月2日(光秀54才)未明
明智軍は本能寺を完全に包囲し、四方より攻め込んだ。
本能寺にいた信長配下の御番衆や小姓衆は応戦、信長は弓から槍に代え戦うも傷を負い、御殿には火が放たれていたが、信長は奥の部屋に行き、戸を閉めた後切腹した。

本能寺より少し離れた妙覚寺にいた信長の長男信忠は、光秀謀反の知らせを受け、救援に向かおうとしたが、家臣たちに制止され、二条新御所に立て籠もることとなった。
当日正午頃、明智勢が二条新御所に押し寄せ信忠は戦えず切腹した。

「本能寺の変」が成功して直ぐ、光秀は周辺諸公からも味方に付けようと
数々のアプローチを行っている。

光秀が味方に付いてくれるものと思っていた、細川藤孝・忠興は光秀の娘(細川ガラシャ)を幽閉し、光秀の誘いを拒絶した。
また、配下の筒井順慶も一旦出兵したが、思い止まり大和郡山城へ引き上げ、後に秀吉の味方になる。

光秀は毛利氏へ信長討伐を知らせる使者を送ったが、途中で秀吉軍に捕まり、そこで秀吉は主君が本能寺で殺害された事を知る。

光秀からの伝言は毛利氏と足利義昭には伝わらなかった。

6月3日、「本能寺の変」を知った秀吉は、直ちに毛利軍と和議を結び、”中国大返し”を決行する。
帰路への道は上様(信長)の援軍が楽に来れるように整備済みだったともいわれている。

秀吉は6月5日には摂津茨木城の城主で光秀に近い中川清秀に「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江善所(滋賀大津)に逃げている」というニセの手紙を出している。

この情報により、中川清秀、高山右近らの摂津衆の多くが秀吉軍に味方するようになる。

6月6日、秀吉は備中高松から岡山へ行くという嘘の情報を流し、馬に乗り
毛利氏の追ってから逃げるように駆け抜け、秀吉の本拠地姫路城へ向かった。

6月7日、秀吉と近習の者たちが姫路城に到着。

6月8日には遅れて到着した軍勢に城内に合った食料や金銭を与え、翌日は姫路城を出立している。
姫路城からは慎重に兵を進め、6月11日には摂津尼崎に到着。

秀吉は大阪で布陣中の丹羽長秀、有岡城(伊丹)の池田恒興らに尼崎に着いたことを知らせている。

この間、光秀は安土城から上洛し、入京した時は公家や町衆が群がって出迎えたと言われる。

光秀は「本能寺の変」後の京での治安維持に当たった後、軍勢を近江の東に派遣し、柴田勝家の備えとした。

6月10日、光秀は秀吉軍の接近を知り、男山に布陣を敷くも秀吉軍2万~4万、光秀軍1万~1.6万と言われる兵力差のまま決戦を迎える事となる。

両軍は円明寺川(現小泉川)を挟んで対峙する。
その後、6月13日摂津国と山城国の境の山崎で両軍は激突し(天王山の戦い)、光秀軍は敗走。
光秀は土民の落ち武者刈りに遭い、命を落とした。

秀吉は、この信長の弔い合戦で勝利した結果、その後の清須会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める事となる。

by mnnoblog | 2018-08-25 08:40 | 気になる事柄
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明智光秀は信長から中国毛利軍と戦っている秀吉の援軍として出陣するよう命令された。

(明智軍記)には、その時、信長より「秀吉の指示に従え」と言われ、光秀の家臣はライバルの秀吉の配下になる事に対し、大いに怒り、無念だと嘆いたという。

また、中国毛利軍と戦い、出雲の国と石見国を勝ち取った時は、その地を領地としても良い。
ただし、現在領地としている滋賀郡・丹波郡は召し上げると伝えられたと記している。

光秀としては、京都から近い近江一帯を自分の領地としていたものを、京都から遠い出雲の国・石見国へ行けというのは左遷と同じ扱いをされたのだと受け取ったと思われる。

せっかく坂本城を築城し家臣共々定住できたと思っていた時である。
光秀と家臣たちにとって出雲の国への移住を考えると辛いものがあったと思われる。

また、毛利軍を打ち破っても、その次は四国制覇が待っている。
四国の長宗我部氏とは、信長の命により、長宗我部氏の領地を削る交渉で失敗している。
失敗している以上、四国制覇の戦いでも秀吉の配下で戦をしなければならなくなる。

さらに、九州制覇でも同じこととなる。
光秀自身もう若くない、いつまでも戦を続けることはできなくなる。

信長は秀吉と光秀を競わせることで、全国制覇を早く成し遂げようと考えていたが、今の所、朝廷との関係もうまくいっているし、光秀の年を考えると、毛利との戦いは光秀より若い秀吉に任せようと考えてのことだったかも知れない。

光秀から信長を見ると、フロイスの書簡に「信長は自分を生きた神仏だと言った」とあるように、信長は全国を制覇した暁には、天皇より上の位に位置付け、神として君臨するような国家体制にするのではないかと考え、その事に対しては絶対反対の考えを持っていたと思われる。

現時点、信長がいる本能寺は守備隊と言っても100名ぐらいである。
主だった家臣は近くにいない。

・柴田勝家は越中魚津城で上杉軍と交戦中。
・滝川一益は上野前橋城で北条勢と牽制中。
・丹羽長秀は大阪・堺で四国征伐待機中。
・羽柴秀吉は備中高松城で毛利勢と交戦中。
・徳川家康は堺で近習数名と物見見物中。

信長に謀反を働くにはこれ以上の時はないが、何の根回しもしていない。

しかし、信長を打ち取った後には、親戚でもある細川藤孝・忠興は自分に味方してくれよう。
自分の配下である筒井順慶も味方になってくれるだろう。

朝廷も信長から”暦改訂問題”や”天皇の譲位問題”等で天皇の権利を脅かされている現状を考えれば、信長を打ち取れば、自分を信長に次ぐものとして対応してくれるだろう。

その上で、毛利にいる足利義昭を上洛させ室町幕府を再興させれば、征夷大将軍の下で諸大名も従ってくれるかもしれない。

信長家臣達に対しては、彼らと戦っている諸大名に足利義昭より討ち果たせと号令を掛けてくれればよい。

神となって、国家を造り上げようとしている信長を倒すには今しかない。
「我が敵は本能寺にあり‼」と光秀は衝動に駆られて号令を発した。

by mnnoblog | 2018-08-24 08:30 | 気になる事柄
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戦国時代最大のミステリー「本願寺の変」。

何故、明智光秀は織田信長を打ったのか!

江戸時代から現在に至るまで、様々な人が多種多様な説を唱えていますが、未だに決定的な説はありません。

私も若い頃から非常に興味のあるこのテーマについて、今回私なりに調べてみました。

明智光秀の謀反について、光秀が単独で行った説と黒幕がいた説がありますが、私は光秀単独説を考えています。

理由は、用意周到な戦いをする光秀にしては、信長を打ち取る前の準備の無さと打ち取った後の手際の悪さです。

光秀は1528年に生まれ、30歳頃越前国の朝倉義景に仕えた時に足利義昭と面識を持つ、足利義昭は朝倉義景に上洛を促すが動こうとしなかったため、光秀が「織田信長を頼れば」と提案した。

光秀は信長の正室濃姫といとこ同士であったため、義昭と信長を仲介したとされている。

その後、義昭と信長の両方の家臣となり、1568年(光秀40才)義昭の上洛に加わる。

1569年(光秀41才)の頃
義昭と信長の仲が悪くなり、光秀は信長に仕え京都奉行の職務を行う。


1571年(光秀43才)
石山本願寺が挙兵すると信長と共に参戦、その年の比叡山焼き討ちで武功を立て、信長より滋賀郡5万石を与えられ坂本城を築城していく。

1573年(光秀45才)
坂本城が完成し居城とする。

宣教師のルイス・フロイスの「日本史」では豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記されている。

1578年(光秀50才)
細川藤孝の嫡男忠興と光秀の娘(後の細川ガラシャ)が婚姻する。

1579年(光秀51才)
八上城の戦いで、人質となっていた光秀の母が殺される。

1580年(光秀52才)
細川藤孝と協力して丹波の国を平定し、丹波一国を所有する。

1582年5月17日(光秀54才)
信長は武田征伐の功労者である徳川家康を安土城でもてなすことにして、光秀にその接待役を任せるが、中国毛利攻めに出ていた羽柴秀吉より援軍を依頼され、急遽、光秀に援軍として出立するよう命じられる。

その日のうちに、光秀は坂本城に戻り出陣の支度をして、翌日領地の亀山城に向かう。

1582年5月29日
信長は安土城より小姓衆のみ引き連れて上洛し本能寺に入る。
信長の軍勢は数日遅れて本能寺に到着することになっていた。

1582年6月1日
公家、僧侶などを招き本能寺で茶会を催す。
茶会が終わった頃、妙覚寺より息子の織田信忠も来て酒宴となる

同日、光秀は1万3000人の手勢を率いて亀山城より出陣する。

by mnnoblog | 2018-08-23 08:30 | 気になる事柄

夏も終わりか――?

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ここ2,3日涼しい。朝の気温が28度である。
30度を下回るとこんなにも涼しいのかと改めて思う。

公園からのセミの鳴き声も聞かれなくなった。
セミの声よりも、夜になるとコオロギが鳴いている。

もう夏は終わったのか!
4,5日前まではあんなに暑かったのに!

台風が19号と20号連続で来るとの予報である。
連続で来なくてもイイじゃーないかと思ってしまう。

23日はゴルフの予定なのにーー
お盆が終わると夏も終わりとはよく言ったものだ。

涼しくなったからには暑くて中止していた散歩を再開することにしよう――と。

by mnnoblog | 2018-08-22 08:20 | 独り言

のほほんと---


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