私のゆるゆる生活

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私の少年時代-5

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家から港までは自転車ならすぐ近くだったので、よく父と釣りに行った。

小麦粉を練ったものやゴカイを餌にして釣り糸を垂れたが、残念ながら釣れた記憶はない。


父の会社の厚生施設に海水浴の「海の家」があった。

バスに乗って230分の所だったが、バスを降りて海岸まで松林が茂っていて、松林の中を海水浴場まで歩いて行った。

夏休みは海水浴へよく行った。


海と山が接近した土地だった。

2階の部屋から、高く聳える山が見えた。

その山を何も考えず、ボーと見ていた。

遠くまで山の峰が続いていた。


その昔、お城があった小高い山へ良く登りに行った。

お城の跡はなかったが、山の上からは住んでいる町が一望できた。

住んでいる社宅や小学校、港のほうには工場から煙が立ち上っていた。


父が外国雑誌を買ってきて、その中にアメリカのマンハッタンに建てられた「エンパイア・ステートビル」の紹介があった。

摩天楼が建ち並ぶニューヨークの景観に、アメリカはすごいと思った。

立派な家や自動車・電車、そして華やかな一般市民の服装、みんなアメリカにあこがれた。


私が住んでいる所で高い建物と言えば4階建てのアパート位なものだった。

レベルが違い過ぎた。

皆がアメリカのレベルに近づこうと思った。

日本が高度成長期に入ったのは、私が高校卒業した頃からだった。



私は高校卒業した後、父が転勤で関西で暮らすようになった。

その後、社宅は老朽化が進んで維持できなくなり2000年頃、社宅は取り壊され、その後はホテルとショッピングモールが建設された。


私の少年時代~青年時代にかけて、過ごした社宅は今はない。

線路もなくなった。

海が汚染され海水浴場の「海の家」も無くなった。


小学校は木造から鉄筋コンクリート造りとなったが、裏山はそのままだった。

中学の同窓会の時に裏山に上った。高射砲跡はそのまま残っていた。

少し怖かった場所が、なぜか懐かしく感じた。


振り返ってみると、私の少年時代は物は無かったが、それなりに豊かな時代であった。

子供同士のいじめもあったが、からかい半分程度のものだった。

赤ちゃんは全ての母親が背中にだっこしていた。

赤ちゃんにおっぱいを飲ませる時、胸をはだけても誰も奇異に感じなかった。


乗り物も少なく、社宅内の道で遊んでいても危なくはなかった。

みんな家で遊ぶより、真っ黒になりながら外で遊んでいた。

おおらかな時代だった。


# by mnnoblog | 2018-06-08 08:10 | 思い出

私の少年時代-4

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小学生の頃、朝鮮戦争が始まったが、小さい頃の私にはラジオから聞こえる花菱アチャコや横山エンタツの漫才を楽しんでいた。

大笑いして聞いていたのを覚えている。


町には映画館が23軒あり、父と一緒に良く観に行った。

その中にジョン・ウェインの「黄色いリボン」があった。

父が映画の主題曲を時々口ずさんでいた。


学校からも教育の一環として学級全員で映画を見に行った事がある。

覚えているのは、小豆島を舞台にした「二十四の瞳」や主題曲が有名な「禁じられた遊び」等を観に行った。


町の電気屋さんでTVを見せる所があった。

時々見に行ったが、背の高い大人が中心を占め、子供は見る事ができなかった。


TVが我が家にやってきたのはそれから数年後の事であった。

「君の名は」が放映されていて、近所のおばさんたちも一緒に見に来ていた。

高価な品物だった所為かブラウン管の前には化粧鏡と同じく前垂れが付いていた。


社宅の外れに小さい運搬用の列車が走る線路があった。

線路に耳を押し付けて列車が走る「ガッタンゴットン」と言う音を聞くのが好きだった。

線路内には入れないように柵は設けてあったが、子供ならやすやすと入れた。


小学校の裏は小高い山があって、放課後になると友達と一緒に山を登って社宅を見下ろすのが好きだった。

草が生い茂った場所を見つけて穴倉を作り”秘密基地”にしたりしていた。


山の上には高射砲を設置した跡が残っていて、その穴の中に入るのが少し怖かった。


小学生の高学年になると自転車を買ってもらったが、それまでは子供用の自転車がなく、大人の自転車で三角乗りをして遊んでいた。

三角乗りはバランスをとるのが難しく、それでも器用に乗りこなしていた。


# by mnnoblog | 2018-06-07 08:41 | 思い出

私の少年時代-3

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道もバスが通る道路以外は舗装されてなく、社宅内の道は土であった。

家は垣根で囲われていたので、砂ぼこりがしても家の中へ入ってくる事はなかった。


四つ角の所で近所の子供たちと一緒に野球をしたが、四つ角と言っても広い場所ではないので、バットで打ったボールが家の玄関のガラスを破ってしまう事もあった。


その時は全員で恐る恐る謝りに行った。

殆どの子供が顔見知りだったので、ガラスを破られた家の人も「気を付けて遊びなさい」程度の叱り方だった。


子供にはおおらかな時代であった。


お正月になると餅つき屋が来て、家の庭で餅を搗いてくれた。

杵で餅を搗く時、餅をこねる人の手に杵が当たらないかと気が気でなかった。

ホワホワの出来立ての餅を食べるのが、お正月の一番の楽しみだった。


また、畳屋さんが来て畳の張替えもしてくれた。

長く太い針で畳を縫う職人さんの動きを眺めるのが好きだった。

畳を縫った後、針を持ちながら肘でゴリゴリと縫ったところを押す動作が力強よかった。


社宅内には銭湯があって、小学校低学年まで銭湯に行っていたが、その後、家にお風呂が付く様になった。

五右衛門風呂であった。お風呂は確かコークスで沸かしていた。


暫くして、電気洗濯機が家に備えられた。

それまでは、洗濯板を使っての洗濯だった。

洗濯機で洗濯した後は、洗濯物をローラーに巻き付けてハンドルを廻して水を取る初期の洗濯機であったが、母は大喜びであった。


社宅の中にはお店もあったが野菜が中心で、お魚は魚屋さんが荷車に乗せて売りに来ていた。

新鮮な魚を食べていた。

アサリの味噌汁も良く食べていた。


また、散髪屋もあって1回/月必ず行くので、散髪屋さんとは小さい時から顔なじみで、高校卒業するまで私の頭はバリカンによる丸坊主であった。


# by mnnoblog | 2018-06-06 08:35 | 思い出

私の少年時代-2

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小学校は幼稚園よりずっと近かった。

木造の学校で、毎朝朝礼がある。

みんな校庭で整列して校長先生の訓示を聞き、ラジオ体操をしてから下駄箱へ靴を入れ素足で教室へ入る。


昼食は脱脂粉乳とパンの給食であった。

脱脂粉乳はまずかったが、私は嫌いではなかった。

お代わりをしていたぐらいである。


昼休みは長い廊下の端で本を読んだりしていた。

向かい側に座って本を読んでいる女生徒が眩しかった。

友達同士でふざけ合って廊下を走り回った生徒がいたが、必ず先生に叱られた。


校庭にはジャングルジムや鉄棒、5メートルほどの高さがある棒立てがあり、度々てっぺんまでよじ登った。

校庭の隅には土俵もあったと記憶している。

その当時、土俵のある学校が多かった。


授業が終わると掃除がある。

生徒みんなで、机を片付け、雑巾で床や机を教室を磨いた。

廊下は腰を屈めて走りながら拭いて行った。

廊下の掃除が大変だった。


学校へは運動靴を履いて通っていたが、普段は下駄を履いて遊んでいた。

良く鼻緒が切れた時、下駄の底に短い棒を鼻緒に巻いて修繕したものである。

下駄を履いて歩く時「カランコロン」となる音が好きだった。


遊びはビー玉かメンコか投げゴマが多かったが、缶蹴り、竹馬、凧揚げも良くやった。

メンコ遊びでは、ひっくり返されないようにメンコの端を折り曲げて隙間ができないよう工夫した。

竹馬も、足を乗せる板がズレ落ちないように、縄帯で縛る工夫をした。

凧揚げでは、凧を引っ張る糸のバランス、尾の長さを考えできるだけ高く揚がる工夫をした。


春になると近くの小川や池に行って、鮒やドジョウを採りに行った。

夏はトンボやセミを採りに行った。

採る道具は棒の先にとりもちを付けた物だったが、捕るのは難しかった。

虫網で捕るほうがやさしかったが、敢えて難しい方で捕る方を選んだ。


トンボ採りはオニヤンマ捕りを目指したが、なかなか捕れなかった。

蝉はクマゼミが目標であった。アブラゼミはいつでも捕れた。

夕方になると小川の側で赤とんぼが群れを成して飛んでいたのを覚えている。


夜になると夜空は星が無数に輝いていて、天の川が良く見えた。

また、蛍も飛んでいて、数匹捕まえて、蚊帳の中に入れて楽しんだ。

蚊帳の中の青い光がはかなく素敵に思えた。


私が少年だった頃は必ず見れた天の川も蛍も今は見る事ができない。


蚊帳の中に入る時は蚊が入らないように蚊帳の裾をバタバタさせながら入ったものである。

私は朝起きると蚊帳を畳むのが好きで、綺麗に畳んでいた記憶がある。


# by mnnoblog | 2018-06-05 08:28 | 思い出

私の少年時代-1

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私は昭和18年に生まれた。

いわゆる戦中派である。

戦中派と言っても、戦争の事は殆ど覚えていない。

覚えている事は、家のガラスが割れないように紙でペケ印に貼ってあったのを何故か記憶している。


また戦後直後の頃は、戦後の食糧事情が悪い時期だったのであろう、母が一生瓶の中の米を精米の為に棒で突いていた事やその米をかまどに薪をくべながらご飯を炊いていた事を薄っすらと覚えている。


かまどで炊いたご飯は必ずおこげができて、そのおこげを食べるのが好きであった。

その後、数年たって電気炊飯器を購入したが、あのおいしかったおこげを食べることが無くなっていた。


私は450戸もある大規模な社宅に住んでいた。

社宅は平屋や2階建ての木造で、私は2階建ての家に住んでいた。

庭も広く敷地は6070坪ほどあった。


戦後食糧事情もあって、何処の家でも鶏を飼っていた。

2~3匹飼っていたと思う。

朝、鶏の鳴き声で目が覚めた。

毎朝、採れたての卵を食べていた。


犬も飼っていたことがあったが、直ぐ亡くなってしまったのでその犬をかわいがった記憶は余りない。

しかし、近所で飼っていた犬が良く遊びに来ていて、その犬をかわいがった。

その当時、散歩のときは紐を付けていたが、それ以外の時は犬は放し飼いであった。

家の中で飼うなんてことはどこの家にもなかった。


都会ではなく地方都市であった為か進駐軍の記憶は殆どない。

ジープが走っていたのをかすかに覚えている。


幼稚園はミッション系の幼稚園で家から幼稚園まで1Kmはあり、園児にしては遠かった。

バスは走っていただろうが本数も少なく、自動車は走ってなく、ほとんどの人が歩きで、自転車も少なかったため通園に危険な事はなかった。


近所の子と3人で通っていたが、小、中、高と学校が一緒だったこともあり、3人は今でも幼馴染同士である。


ミッション系の幼稚園だった事で、キリストへのお祈りを覚えさせられたのであろう、後に母から聞かされたのは、毎晩眠る前に、数珠を持ってお祈りをしていたそうである。


# by mnnoblog | 2018-06-04 08:14 | 思い出

のほほんと---


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